大河ドラマ「どうする家康」で天下を目指す羽柴秀吉の弟として登場する羽柴秀長。苛烈な性格の秀吉に比較すると温厚で寛大な性格であり、そのため秀吉の怒りを買った多くの戦国大名の仲介をし、秀長のお陰で首が繋がった大名も多くいます。しかし、それが秀長の役割かと言うと違い、もっと大きな役割があるのです。
羽柴秀長の役割とは金策
羽柴秀長が背負っていた大きな役割、それは金策です。秀吉は味方の人的損失を避けるために、城攻めや水攻めなど長い期間が必要な戦を選択していますが、それを可能にするにはお金が必要でした。秀吉にいかに人間的な魅力があったとしても無一文の人間に従う人はいません。そこで秀吉が湯水のように使うお金を調達する才能の持ち主が必要で、それが秀長だったのです。
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秀長が遺した莫大な遺産
多額のお金を調達した羽柴秀長、その実像の片鱗を感じさせるのが秀長の遺産です。秀長が本拠地とした大和郡山城には、黄金が五万六千枚、銀子は二間四方の部屋に充満するほどにあったそうです。確かに秀長は豊臣政権の重要な人物として、紀伊と河内、大和に領地を持ち合計で110万石の大名ではありましたが、秀長が110万石の城主であった期間は死ぬまでの6年間であり、単に倹約だけでは、これだけの多額のお金が貯まるとは考えにくいのです。秀長が実収入以外にも種々の利殖をしていたと考えた方が自然でしょう。
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やり過ぎで秀吉に怒られた秀長
お金は使うのは一瞬ですが、貯めるのは並大抵ではありません。ましてや使うのが天下人となれば、天文学的な金額が瞬時に無くなるという事もあり得ます。秀長も懸命な金策をして度を過ぎる事があり、秀吉に怒られた事がありました。たとえば、九州征伐の時、秀長は全国から買い集めた30万人分の兵糧と2万頭分の飼料を管理していましたが豊臣軍に従軍している大名に対し、米を不当に高く売りつけようとしたとして、秀吉に叱責されています。
ここだけ見ると銭ゲバに見えますが、この頃、秀吉は四国征伐、九州征伐、小田原征伐、奥州仕置と10万以上の大軍を動かす大戦を度々仕掛けていました。秀吉は采配を振るう役なのでいいですが、その莫大な軍事費を調達する秀長は毎日、金策に苦しみ、大名に高く米を売りつけねばやってられなかったのかも知れません。
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不正に手を染めた疑惑も
品行方正に見える秀長ですが、こと金策に関してはかなりグレーな事もしています。九州征伐から間もない1588年、紀州雑賀で木材の管理をしていた吉川平介という男が熊野木材、2万本を伐採して大坂で売りさばきましたが、その利益の一部を着服したとして、秀吉により晒し首となりました。
ところが、この吉川平介の上司は羽柴秀長だったのです。実直な秀長が素行の良くない部下を持った気の毒な事件…とは、ここまでの記事を読んだ方は多分思えないでしょう。秀吉は万が一、秀長が関与していた場合を考え、それ以上の調査をしませんでしたが、翌年の正月の拝謁は差し止めという道義的処分を下しています。
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日輪の輝きを支えた男
誰もが嫌がる金策という裏方仕事を続けた秀長は、九州征伐の前後から、目に見えて体調を崩すようになります。それでも湯治を繰り返しながら療養していた秀長ですが、兄、秀吉の天下統一の総仕上げである小田原征伐には従軍できませんでした。しかし、病床から秀吉の天下統一を見届けた後、1591年2月15日に51歳で死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
羽柴秀長の誰にも代わりが出来ない大事な役割、それは金策だったのだと編集長は思います。人はいい加減な人間に金を貸したくないので秀長の実直で寛大な性格と忍耐強さはお金を借りる上でもプラスに作用したのでしょうね。
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