天下人、豊臣秀吉。織田信長の家臣であり、明智光秀に討たれた主君の敵討ちをしたことで一気に大出世。あれよあれよという間に天下を統一、しかしその後は皆さんご存知……という言わずと知れた人物ですが。
その天下人の弟こそが、豊臣秀長、という人物です。しかし秀吉の弟であるにも関わらず、謎が多いのがこの豊臣秀長という人物。今回はそんな豊臣秀長の謎の一つ、死因の謎について迫ってみたいと思います。
この記事の目次
天正19年1月22日、豊臣秀長死す(いきなり)
今回は趣向を変えまして、いきなり亡くなった瞬間から言ってみたいと思います。豊臣秀長の死亡は1591年2月15日。郡山城内で病死、とされています。享年は52歳でした。戦国時代であることを考慮しても、そこそこのご年齢。とは言え、まだまだ年齢としては若く、母親である大政所や、兄の秀吉に比べると遥かに早いと言える年齢です。
病であったとされる豊臣秀長、悪化が原因か?
ではこの年から少し遡ってみましょう。1589年正月に、豊臣秀長は大阪城に訪れていたという記録があります。これは新年祝の太刀進上を行うというイベントがあり、これを目的として訪れたと見えますが、これ以降、豊臣秀長は大阪城を訪れることはありませんでした。
更にこれから一年後、病が悪化したことで小田原征伐に参加せず、体調はどうやらこれ以降はずっと悪かったようで、同年10月に羽柴秀次が病気回復祈願を行っています。これだけを見ると、そもそも以前から体調不良で、それが悪化して……というのが普通でしょうか。しかし、もう一つ考えられるものがあります。
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豊臣秀長、実は兄の秀吉に疎まれていた!?
秀長は兄の秀吉の天下のために尽力していました。このために様々な戦いに従軍し、ほぼ敗北無しというキーマンです。この従軍した戦の中に九州平定があるのですが、ここで日向攻めの総大将として島津軍の夜襲を防ぎ切り、撤退させています。この功績は大いに秀吉を喜ばせたのですが、その影で実は秀吉と秀長の揉め事が起きました。
秀長は九州征伐前に兵糧を買い込んで置き、いざ戦が始まると兵糧不足になっている大名たちに高額で販売しようとしたのです。これを秀吉が止めたという話なのですが……更に。
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兄弟の軋轢、既に起こっていた可能性!
前述しましたが、1589年正月に、豊臣秀長は大阪城に訪れていたという記録があります。その前年、1588年、事件が起きました。秀長に命じられて材木の売買をしていた人物が、その代金を着服していたというのです。
この事件は秀吉の耳にまで届き、秀吉は激怒!
秀長は管理責任を問われて翌年の年頭挨拶を拒否……されたはずですが、1589年に秀長は大阪城に訪れている……和解したのか?それとも呼び出されていた……?
とするならば、秀吉と秀長による確執があって暗殺されていた……?
あちらこちらからやってくるお客様と豊臣秀長
と、いう所で更に遡ると面白い一件が。
これより以前、1586年ごろから、秀長は良く湯治に訪れていたそうです。湯治といえば病気療養、もしくはそこまで行かずとも、日々の疲れを癒すためという目的もあったでしょう。
しかしこの間、金蔵院、宝光院、本願寺、などなどからお見舞い目的でやたら使者が訪れる訪れる。更には徳川家康までこの時に上洛して、秀長の屋敷に宿泊したといいます。……お客様のおもてなしって、疲れるよなぁ……。
宰相秀長、兄から頼りにされていた
もう一つ、こちらは九州征伐の前のこと。大友宗麟が訪れた時のことですが、これを持て成した秀吉は
「公儀のことは秀長に頼んでるから、何でも言ってね!(意訳)」
とのことで。つまり体調が余りよろしくないにも関わらず、九州征伐に行かされるわ、客人の相対はするわ、更には頼みにされているとはいえ、大きな権限も秀長に秀吉は持たせた上で一任していた、という訳です。
こう言うことも踏まえると、秀吉と秀長は揉めることはあったとはいえ、頼みとされていたことも事実ではあったと思われます。
もしかして、豊臣秀長の死因は過労死
じゃあ豊臣秀長の死因って何か?と言いますと。世間一般で言う所の、過労死であった可能性が非常に高かったのでは、と思われます。
記録を見る限りではあっちに行きこっちに行きと動き回され、多くの戦いに出され、大名たちの統率もし、かと言えば客人たちのもてなし及び対面というストレスフルそうな仕事まで任される。更にいうなら何か起こせば兄のお叱りが飛んでくる、と。
もう少し言うとストレス性による体調不良、悪化、という流れも有り得るでしょう。豊臣秀長という人物は温厚かつ、穏やかな気性であったことから、諸大名は何か秀吉に頼みたい際は秀長に話を通して相談した、とも言われます。
そう考えると一番気を使うポジションにいた豊臣秀長という人物が寿命を縮めてしまったのは、豊臣政権が上手くいっていたからこそ、と言えるのではないでしょうか。
戦国ひよこライター センのひとりごと
豊臣秀長という人物、兄である秀吉に比べるとあまり目立たない人物です。しかし記録されていることを見ていくと、穏やかな性格で他人によく慕われているような人物像が見えてきます。
その一人として有名なのが、家臣である藤堂高虎ですね。彼は豊臣秀長死後、30年以上にも渡って法要を行い、弔いを続けたと言います。ではそんな人物が、どうしてもっと色々な場面で記録されなかったのか?
個人的にないことが惜しく、同時に幸いでもあったのかもしれない。そんな不思議な人物でもあると思いますね、豊臣秀長は。ちゃぷり。
参考:後編旧記雑録 大友家文書録 徳川実紀
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