日本史に名高い「桶狭間の戦い」には、いろいろと珍しい点があります。
・少人数で大軍を打ち破った劇的勝利という点で、まず珍しい、というところは有名ですが、
他にも、
・「戦国大名本人が討ち取られた」合戦という点でも、比較的珍しい、
という指摘もできます。
そうなのです。だいたい戦国大名の敗死というのは、自害に追い込まれたり、捕らえられて処刑ないし獄中死になったり、あるいは戦場から逃げる途中に落ち武者狩りに会って急死したりで。
総大将である戦国大名本人を狙った作戦が当たって、まんまとその首を獲って帰ってきたというのは、戦国時代中でもかなり珍しい「成功事例」といえるのです。
さらに珍しいのは、
・その戦国大名にトドメをさした人物の名前と生涯もきちんと今日まで伝わっている点、となりましょうか。
それが桶狭間の戦いを描いたドラマや漫画に必ず名前だけは出てくる、「毛利新介」という人物。今川義元に戦場でトドメを食らわせた人物は彼であるとわかっています。
この毛利新介(あるいは毛利良勝、どのような人物だったのでしょうか?
そしてもうひとつ、討ち取られた側の今川義元の最期は、どのようなものだったのでしょうか?
毛利新介に「むなしくやられただけ」だったのでしょうか?
詳細に追ってみると、ここには、討ち取ったほうにも、討ち取られたほうにも、なかなか深いドラマがあったことが見えてくるのです!
この記事の目次
「一発屋」なんかじゃない!織田信長の側近としてその後も活躍していた毛利新介!
まずは毛利新介のドラマから。
「今川義元を討ち取ったという以外に目立った功績はない一発屋」などということをいう人も少なからずいるようですが、とんでもない!
彼はその後、織田信長の「母衣衆」に抜擢されています。母衣衆というのは、織田信長お抱えの、いわば親衛隊のような存在。戦場で信長の周りを固め、信長の直接の命令で動く、「主君と一緒にどこまでも」な選抜部隊です。
この母衣衆に、かの前田利家や佐々成政も加わっていたと言えば、この「母衣衆」チームの重要性がわかるのではないでしょうか。母衣衆に抜擢された毛利新介は、その後の伊勢攻めや、甲州攻めに転戦しています。目立った功績がないなどと言われますが、重要な戦いに常に召喚されていたということは、織田家中でも継続して重要な人材と扱われていた証拠。
単に「今川義元を討った」というインパクトが強すぎたせいで、その後の活躍が一見地味に見えてしまうだけで、立派に「平均以上」の活躍はしていたものと思われます。
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最期の瞬間に執念を見せた?毛利新介の指を食いちぎったと伝えられる今川義元!
ところでこの毛利新介には、ひとつ、興味深い伝説があります。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったのは事実ですが、その際に、今川義元に「指を食いちぎられた」という伝説があるのです。
取っ組み合いになり、夢中になってなんとか首をかききった時、気が付いたときには指がなくなっていた、その指は今川義元の口の中にあった、という感じでしょうか。その「指」が、一本なのか二本なのか、親指なのか小指なのか、詳細がいまひとつわからないのですが、桶狭間の戦い以降の毛利新介が、最前線で華々しいことをしたという話がなく、どちらかといえば信長の「使える側近」として活動していたように見えるのも、
もしかしたら、今川義元に食いちぎられた指というのが相当な深手で、その後、刀や槍を最前線で使うには支障の出るレベルだったのかもしれません。この話については、むしろ、「何もできずにあっけなく殺された」という印象論で語られがちな今川義元が、意外なほどに、最期の瞬間に執念の格闘戦を見せていた可能性を窺わせ、興味深い話です。
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毛利新介の心境を考えれば、指を失ったことはそう悪くもない?
どの程度の深手だったのかは不明ながら、「指をなくした」という毛利新介。その後半生はどんな心境だったのでしょうか?
「あのときは指を食いちぎられて恐ろしい思いをした。もう戦はこりごりだ!」なんて、現代人的な考えをしたとは、やはり、思えませんよね。むしろ、「今川義元を討ち取ったのはオレだ!見ろよ、その時、食いちぎられたのが、これさ!」と、不便になったはずの手を、むしろ誇らしげに、周囲に見せびらかせていたのではないでしょうか?
それくらいの剛毅な戦国武者ならばこそ、信長もかわいがって、母衣衆として抜擢して使い続けたのでしょうし。
実際、毛利新介は、本能寺の変の際、主君の後を追うように、明智軍に挑んで戦死しています。「今川義元を討った男」らしい、豪快な最期だったと言えるのではないでしょうか。
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まとめ:その毛利新介の指はどこへいっちゃったの?もしや?!
ところで、気になることがあります。食いちぎられた「毛利新介の指」は、その後、どこへいったのでしょう?
もしかすると、今川義元の生首の、口の中に挟まったままだった?
そんな勝手な想像をしてしまいます。というのも、織田信長の性格を考えた場合、毛利新介が、指をくわえたままの今川義元の首を信長のところにもっていったとすると、「いや、これはあっぱれ!新介よ!お前の指を含めて、これは立派な首級じゃ!」と大喜びしたのではないでしょうか?
その後、「義元の首をさらした」とあるのですが、その際も毛利新介の指をくわえたままの状態で、「みんなも毛利新介の勇ましさをよく見ておくように!」とさらしていたとしたら?そんな想像を深めていくと、ふと、思いつくことがあります。
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戦国史ライターYASHIROの独り言
実は、現代の愛知県西尾市に、ひっそりとしたものながら、「今川義元の首塚」と伝わる墓があります。もしかしたら、そこに収められている義元の頭骨の口内に、今でも毛利新介の指の骨も混じっていたりして、などと。桶狭間の戦いという日本史上に残る戦いで、討った者の指と、討たれた者の首が、今では同じ墓で静かにともに眠っているとしたら、なんだか面白い、などと勝手に想像してしまうのですが、さすがに空想がすぎるでしょうか?
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