意外!上杉謙信は実は長尾氏だった!越後長尾氏の歴史を紹介

09/08/2021





監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長尾景虎の登場

上杉謙信

 

長尾為景の跡を継いだのは晴景です。

 

彼は穏健な政策を取りましたが、越後守護の上杉氏の養子問題などで国内が分裂したことに対してしっかりと抑えることができませんでした。そのとき弟で城下の寺院にて、僧として入門していた虎千代が還俗し景虎となります。長尾家の家臣では、穏健で国内をまとめきれない晴景よりも景虎を期待するものが現れました。

 

長尾家の分裂危機に陥り、1548年守護・上杉定実により景虎が長尾家の後継者になることが決まりました。さらに二年後に、定実が後継者を指名することなく没します。

 

足利義輝

 

このとき景虎は室町幕府の足利義輝(あしかがよしてる)から越後守護を命じられます。名実とともに越後の国主となった景虎は敵対する上田長尾家などの勢力を圧倒。22歳にして越後統一に成功します。ところが越後を統一した景虎は、長尾氏が今まで遭遇しなかった敵と戦います。それは甲斐と信濃を支配していた武田晴信(たけだはるのぶ)(信玄)。

 

領地を追われた信濃の小笠原長時、村上義清(むらかみよしきよ)が景虎を頼ると、景虎は出陣を決意しました。

 

「甲斐武田の棒弱無人な行いを、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身である俺が成敗する」との想いで、初めて武田軍と激突します。

 

武田信玄-vs-上杉謙信

 

この戦いが有名な川中島の合戦(かわなかじまのがっせん)で、1553年、54年、57年、61年、64年と5回にわたって雌雄(しゆう)を決する戦いが行われました。戦いの中でも第4次の川中島の戦いは規模が大きく、山本勘助ら武田方の多くの敵将を打ち取ります。

 

また両雄が一騎打ちたというエピソードもこの戦い。激しい戦いのため双方の大将が刀を抜いて戦った事実は記録にあります。しかし大将同士が相まみえたというのは後世の創作です。結局この戦いで双方が致命的なダメージもないまま、はっきり決着がつかずに終わっています。

 

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関東管領、上杉謙信

暗号を使う上杉謙信

 

長尾景虎は越後守護として国を統一。武田晴信と5回にわたって戦いました。しかしその一方で別の戦いも頻繁に行いました。この当時の関東管領は山内上杉家の15代当主の上杉憲政(うえすぎのりまさ)です。1552年に関東で大勢力誇っていた後北条氏の北条氏康に攻められ、景虎を頼ります。

 

景虎は氏康軍を撃退しその結果景虎の官位が上がりました。北条や武田との戦いを繰り広げる一方、1559年には上洛して管領並みの待遇を得ます。

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

その後武田と北条と共に同盟を結んでいた駿河の今川義元(いまがわよしもと)が、桶狭間(おけはざま)織田信長(おだのぶなが)に滅ぼされると、景虎はその隙に関東に侵攻。小田原城まで攻めて氏康を追い詰め、また名目上は関東の中心だった古河御所も制圧。このような活躍もあり、憲政は後継者に景虎を指名。山内上杉家を継ぐこととなり、名前を上杉政虎(うえすぎまさとら)となります。

 

こうして1561年政虎は、関東管領職を正式に引き継ぎました。この職は後の15代将軍義昭(よしあき)からも任命されます。政虎は武田、北条のほか越中の一向一揆と戦いました。そののちには義昭の命により織田信長とも対決姿勢を強める結果に。

 

1574年に政虎は剃髪し謙信を名乗ります。謙信は越中や加賀にも勢力を伸ばしていきました。1577年には「おのれ信長!貴様ごときに負けん」と言わんばかりについに信長軍と激突。信長家臣の柴田勝家(しばたかついえ)羽柴秀吉(はしばひでよし)らと手取川で戦います。3万の織田方の軍勢に対して上杉軍8千が打ち勝ちました。

 

亡くなる上杉謙信

 

翌年の1578年には織田軍に対する大遠征を計画。ところが出発の6日前に厠(トイレ)で倒れ、謙信は急死してしまいました。死因は脳溢血とされます。

 

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謙信の後

名古屋城

 

謙信亡き後の上杉(長尾氏)は、後継者として上杉景勝が継ぎました。上田長尾氏出身で、当初は長尾顕景。実子のいない謙信の後継者となりました。ただ謙信の死後すんなり決まりません。後継者を巡って北条氏康の子・上杉景虎との争った御館の乱に勝利します。

 

時代は秀吉の天下統一のときと重なり、秀吉に従います。秀吉晩年には五大老のひとりとして会津120万石を領有。しかし秀吉死後に家康から討伐の対象とされ、これが関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)の幕開けとなります。

 

家康が天下を取った後、30万石と4分の1に大幅減封となりましたが、米沢藩の初代となり、上杉家は以降明治維新まで大名家として存続します。藩主の直系は途中で耐えますが、養子として迎えた4代藩主綱憲(つなのり)の父は、赤穂事件・忠臣蔵の吉良上野介・義央(きらこうずけのすけ・よしなか)。浪士討ち入りの際には援軍を送ろうとする綱憲を周囲が止めました。

 

また9代藩主の鷹山(ようざん)は、藩の再生に尽力し、江戸時代屈指の名君としてその名前を残しました。上杉家の末裔は健在で、現在の当主は藩に伝わる貴重な資料を管理する米沢上杉文化振興財団の名誉会長です。

 

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まとめ:戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

上杉謙信は有名な戦国武将ですが、その出自である長尾氏については、複雑な家系関係があり非常にわかりづらいです。謙信の先祖の長尾氏は、上杉氏の家臣でありながら代を重ねることに力をためて越後を実効支配。謙信の代で名実と共に上杉守護、そして関東管領になりました。最後は急に倒れで急死。

 

直前までに大遠征を計画していたので、もしここで死なずに信長と雌雄を決していたら、大きく歴史が変わったのかもしれません。

 

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はじめての戦国時代

 

 

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Soyokaze

旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。
【好きな歴史人物】
蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王)

-上杉家(戦国), 戦国時代
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