東京裁判は正式には「極東国際軍事裁判」と言い、欧州でナチスドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判と対をなす形で昭和21年5月に開廷し昭和23年12月に閉廷しました。
では、東京裁判では誰が起訴され、またどんな理由で裁かれたのでしょうか?
この記事の目次
敗戦国のみを裁く裁判
東京裁判は、それまでの人類史には存在しない極めて異例の裁判でした。人類の歴史は戦争の歴史ですが少なくとも17世紀以降の欧州では戦争とは宣戦布告から始まり、敗北した国が勝った国に領土を割譲したり賠償金を支払って終わりです。
しかし、第1次世界大戦で状況は一変しました。この戦いは世界を巻き込んだ大規模なものになり、参戦国は国力を総動員して戦い、国民生活は戦時一色となり物資の欠乏と多大な戦死者をもたらします。
各国政府は国民の不満をガス抜きし、同時に敵愾心をかきたて士気を高める為に敵国を悪として自国を正義とします。こうして敗戦したドイツに天文学的な賠償金を押し付け、悪とレッテル貼りする事で国民の怒りがドイツに向かうように仕向けたのです。
大戦後には賠償金ばかりではなく、ライプツィヒ裁判としてドイツ皇帝ウィルヘルム2世を国際道義に反した罪で裁判にかける提案がなされますが戦勝国の日本とアメリカの反対でうやむやになりました。
しかし第2次世界大戦では、一度消えた国際裁判が蘇りドイツと日本の戦争指導者を裁く国際軍事裁判が開かれます。こうして戦勝国が敗戦国を裁く政治ショーが幕を開けたのです。
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東京裁判では誰が起訴された?
では、東京裁判では誰が起訴されたのでしょうか?
テレビや映画の影響で東條英機が起訴された事は知っている人が多いでしょうが、実際には東条に加えて27名が起訴されました。
判決では、東条英機、板垣征四郎、松井石根、木村兵太郎、広田弘毅、武藤章、土肥原賢二の7名が絞首刑判決を受け、重光葵が懲役7年、東郷茂徳が懲役20年、大川周明が訴追免除、永野修身と松岡洋右が判決前に病死、それ以外の被告は終身刑でした。
どんな罪状で裁かれたのか?
東京裁判で訴追された28名はどんな罪状で裁かれたのでしょうか?
起訴状によると、それは以下の3つに分類されます。
A級:平和に対する罪
B級:殺人及び殺人罪の共同謀議の罪
C級:通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
検察は特に、一の平和に対する罪の立証に力を入れ、「1928年から1945年まで一貫してA級戦犯28名が侵略戦争を共同謀議した上で計画・実行し平和に対する罪を犯したと主張しました。
結果として25名もの被告が共同謀議で平和に対する罪を犯した事になりましたが、検察の主張した平和に対する罪は、そもそも前提がオカシイものだったのです。また、BC級戦犯については東京だけではなく、横浜やマニラなど49カ所で軍事法廷が開かれ、5700名が起訴され1000人以上が死刑判決を受けました。これらについても、連合国の報復感情が働き冤罪で処刑されたケースが多くあります。
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日本とナチスを同一視した検察
平和に対する罪は東京裁判に先行して開廷したニュルンベルク裁判で使われたものでした。
ナチスドイツは、1933年にドイツ第一党となりヒトラーを総統として独裁体制を敷き、1945年の敗戦まで政権が存続していたので、ヒトラーを中心にナチス党幹部の間では、共同謀議は成立していたのです。
そこで検察はろくに調べもせず、「どうせ日本もナチスと同じようなものだ」と思い込み、28名のA級戦犯が1928年から1945年まで一貫して侵略戦争を共同謀議し計画実行したと有罪のシナリオを描きました。しかし、日本のA級戦犯28名は共同謀議どころか、お互い面識がない者や政敵だった者さえ存在し利害関係がバラバラでした。
さらに内閣は、1928年から1945年の間に16回も代わっていて、大東亜戦争開戦時の首相である東條さえ、昭和16年10月18日~昭和19年7月22日までしか内閣を維持できず総辞職していたのです。
つまり日本に独裁政権は存在せずナチスのような一貫した共同謀議は出来ません。検察は間違いに気づいたハズですが、ナチスと同様に人道に対する罪で裁くという基本方針を堅持しました。検察の主張とは多少誇張すれば以下のようなものです。
「張作霖爆殺も満洲事変も日華事変も日独伊三国同盟も、2.26事件も、終始一貫し訴追された28名が共同で計画を立てて実行したのだ。やつらは世界征服を企むショッカーだ!」
このように無理矢理に28名に平和に対する罪を押し付け、裁判長も検察を支持しました。すべては結論ありきだったのです。
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事後法で敗戦国を裁いた東京裁判
東京裁判において一番の問題点は、事後法において敗戦国を裁いた事でした。
法律については、法は時間を遡らないとする法の不遡及の原則があり、法律が制定される前に起きた行為については裁く事ができません。
具体的に言うと高速道路の速度制限が100キロ以下だったものを80キロ以下と法律で決めた場合、取り締まる事が出来るのは法律が決まってから後のスピード違反だけで、遡って以前に90キロ出していた人を取り締まる事は出来ないのです。
これが許されるなら、過去に合法だった事を違法とすれば誰でも逮捕する事が出来るでしょう。東京裁判で訴因となった一の平和に対する罪、二の殺人及び殺人罪の共同謀議の罪の一部については、日本が戦争を始めた後に決められたもので明らかな事後法でした。連合国は後だしジャンケンで罪を制定し日本だけを裁いたのです。
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戦勝国は全く裁かれなかった
また、東京裁判では、同じく戦争に参加していた戦勝国の罪は全く裁かれませんでした。
連合国はニュルンベルク裁判でナチス高官をユダヤ人虐殺を引き起こしたとして、三、通例の戦争犯罪及び人道に対する罪として裁きました。が、アメリカが広島と長崎に落した原子爆弾による民間人の大量殺戮や、超高高度爆撃機B-29の無差別爆撃による民間人殺戮を一切裁こうとはしませんでした。
東京裁判において法は全く公平ではなく、むしろ勝てば何をやっても罪に問われない無道を助長する為に使用されたのです。連合国は東京裁判を文明の裁きと自画自賛しましたが、実際には法を無力化し400年間営々と積み重ねられて来た国際法を破壊しただけでした。
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裁判所条例の問題
東京裁判は足掛け2年も続きましたが、結論は最初から日本国有罪と決まっていました。
この裁判においては、国際法ではなく連合国が決定した裁判所条例に従って裁判を進める事が決められ、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが首席検察官や裁判長の任命権を握り、判事も裁判所条例に拘束されました。
そして、マッカーサーはこの裁判を平和に対する罪、人道に対する罪、一般の戦争犯罪の3つで規定し、これらの案件で日本国を裁くように命じ、これ以外の判事の見解を認めなかったのです。
つまり、判事たちは日本に対し有罪の判決を下す事しか許されていませんでした。ただ1人、インドから派遣されたパル判事だけが東京裁判の裁きは、連合国が勝手に決めた裁判所条例ではなく従来の国際法によるべきであると主張。これが容れられず、東京裁判を無効とし日本国無罪の判決を出したのがパル判決書です。
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日本史ライターkawausoの独り言
東京裁判の問題点は事後法による裁きと戦勝国の犯罪が裁かれない事、そして国際法ではなく連合国が勝手に作った裁判所条例に従い、裁判が行われた事です。1つのみならず複数の問題点を持つ東京裁判は、文明の裁きどころか人類を野蛮にし勝てば官軍の風潮を強めただけだとkawausoは感じます。
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