日本史の近現代で必ずと言っていいほど触れられるのが満洲事変です。
1931年に勃発し、いわゆる十五年戦争の発端とされる満州事変ですが、日本が悪かったと教えられるばかりで詳しい内容に触れられる事がありません。そこで今回は公平な視点から満州事変を分かりやすく解説します。
満州事変までのポイント
では、最初に、ここを押さえれば満州事変までが分かるポイントを解説します。
① | 満州には日本が日露戦争で獲得した正当な権益があった |
② | 蒋介石は日本に対し清朝が結んだ条約は無効と日本の権益を否定 |
③ | 日本は、親日的な満州軍閥張作霖に接近して便宜を図り
権益の保護を計るが張は排日運動や外国勢力に迎合。日本と距離を置く |
④ | 関東軍は張作霖の乗る列車を爆破して張を暗殺する |
⑤ | 張作霖軍閥を引き継いだ張学良は蒋介石支配下に入り、引き続き
日本の権益を無視した排日行為を続行し日本政府の抗議を無視。 |
⑥ | 関東軍は満州を中国から切り離し日本統治下に置く事で排日行為を
一気に解決できるとして満州事変を起こした。 |
最初の日露戦争で獲得した正当な権益とはポースマス講和条約で保障されたものです。
具体的には、関東洲(遼東半島の付け根部分)と南満州鉄道に付属する土地をレンタルする権利や、東清鉄道の鉄道の敷設権、炭鉱の採掘権などがありロシアから引き継ぎました。
これらの権利は戦争に勝利し条約で承認された権利で当然守られるべきですが、中華民国政府総統、蒋介石は1919年以後、清朝と日本が結んだ条約の無効を一方的に通告し、日本の南満州の権益を奪い取ろうとしました。
その為、日本政府は条約遵守を求め親日派の満州軍閥、張作霖に接近したり、蒋介石に対し張学良の排日行為を止めさせるように外務省を通じて抗議しましたが、受け入れられず、日本政府は完全に行き詰まります。
この状態で日本の満州権益を守るため関東軍は中国の干渉から満州を切り離して、日本の直接支配に置こうと独断で行動したのが満州事変です。
満州事変に至るまでのポイントは、教科書ばかりかTVドラマでも触れられないので、突然、満州に入って来た関東軍が侵略行為を起こしたと錯覚してしまいますが、大事なのは満州には日本の正当な権益があり、関東軍は文民統制を逸脱してまで、それを守ろうとしたという事なのです。
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関東軍とは?
満州事変の首謀者となった関東軍とはどんな組織でしょうか?
名称の関東とは日本の関東地方の意味ではなく万里の長城の東端、山海関の東部、関東洲を守る部隊である事から名付けられました。
中華民国から租借していた遼東半島先端に位置する関東洲の守備や、南満州鉄道付属地警備の為に設置された関東都督府守備隊が前身で、当初は鉄道周辺と関東洲の租借地を守るだけのごくわずかな規模しかありませんでした。しかし、満州事変から満州国建国と大陸に緊張が高まると共に増員と拡大を繰り返していき、最終的には80万人近い規模にまで膨れ上がりました。
中華民国の加害行為
ここで満州事変の動機となった張学良による日本権益に対する攻撃を見てみます。張学良は南満州鉄道の経営を苦境に陥らせる為に、官民合弁の鉄道会社を興し、満鉄に併設して新しい路線を走らせ安価な輸送単価で経営競争を開始します。
すでに世界恐慌のあおりで経営難に陥っていた満道は大赤字を出して深刻な経営難に陥り、3000人もの社員解雇、昇給停止、破損車両の補修中止など支出削減を余儀なくされました。
ここまでなら経済競争であり仕方ありませんが、張学良はさらに満鉄の付属地に柵を巡らし通行口には監視所を設けて二重に税金を取ったほか、盗売国土懲罰令を制定して、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売却した者を国土を盗んで売る者として処罰しました。
また、日清間の善後条約で正当な許可を得て満鉄付属地外で経営していた日本企業の許可を一方的に取り消し、警察力で営業を妨害したので経営不振が相次ぎます。
もちろん日本の外務省は張学良に抗議しましたが、張は、外交権は南京政府にあると黙殺し、南京政府も何の対策も打ちませんでした。この張学良による日本排斥による懸案は満州事変に至るまでに370件に及び、痺れを切らした関東軍は本国政府を無視し独断行動に出たのです。
これらのニュースは当然日本にも入っていて、新聞は日本政府の弱腰を非難し国民も若槻礼次郎内閣の協調外交に失望していました。関東軍が独断で起こした満州事変が日本国内で大歓迎された背景には、中華民国や張学良軍閥による執拗な排日行為があったのです。
リットン調査団の報告書
リットン調査団は満州事変後に中華民国が国際連盟に日本の侵略行為を提訴した結果、国際連盟理事会が実情把握の為に送り込んだイギリスのリットン卿を団長とする調査団です。
教科書などでは、リットン調査団は満州事変を関東軍の自作自演の侵略行為であると批難し自衛行為とは認められないと断定。日本政府は憤慨し、国際連盟を脱退して世界の孤児になったと締めくくられる事が多くなっています。
しかし、リットン卿の調査報告書を子細に見ると満州事変については侵略であると認めつつも、日本が従来満州で保有する権益は保障し中華民国に対しても不買運動で排日を煽る先に平和はないと厳しく排日運動を批判していました。
それも当たり前で、帝国主義の時代である当時、強国が弱国に不平等条約を押し付けて、権益を得るという事は当たり前に起きている合法行為であり、日本の権益を全否定すれば、当然、西洋列強が中国に保有する権益も否定しなければならなくなります。
ところが日本では、リットン報告書の「満州事変は侵略であり容認できない」という部分が強調して伝えられ軍部が憤慨。世論もリットンの報告書を一方的だと受け入れませんでした。
満州事変は関東軍自作自演の侵略でしたが、だからと言って中華民国が主張するように日本の満州権益を全て破棄せよという意見が大勢を占めたわけではなく、従来の条約で保障された権益は保護し満州事変はリセット!今後は外交で仲良くやって下さいというのが、リットン卿の報告書の内容です。
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満州の魔力
ただ、あまりに満州事変の手際が鮮やかでロクな抵抗もない内に勝利した事で、日本は満洲事変で得た成果を手放す事を惜しんでしまいました。満州は日本の4倍の面積を持ち、石炭、石油、アルミニウム、鉄鉱石が採掘でき、陸地から水平線が見える平坦で豊かな土地、過剰な人口を持つ資源貧国の日本を幻惑させるに十分だったのです。
日本は国際連盟を離脱し満州国を建国すると、さらに満州の緩衝地帯を得ようとして熱河作戦を開始し、ついに山海関を越えて中国領内に入り込みます。
結果、1933年に塘沽停戦が結ばれ日中の武力緩衝地帯が築かれますが、陸軍の中国国内への干渉は止まらず、とうとう泥沼の日華事変に突入してしまうのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
満州事変は一片の疑念の差しはさみようがない自作自演の侵略ですが、一方的な蒋介石による条約破棄、張学良による日本人や朝鮮人居留民、日系企業への不法な嫌がらせ、そして、外交的な紛争解決努力を一切しようとしない中華民国政府に対し日本政府が無力であり、それに失望した関東軍が独断で行動を起こした心情は理解できます。
外交交渉は双方の真摯な努力あって結実するもので、中華民国が排日を放置し、けしかける以上は、日本がどんなに交渉しようとしてもどこかで武力紛争になったでしょう。
満州事変は関東軍の独断による侵略行為ですが、それが起きた原因には中華民国の排日政策と条約無視のルール違反があった事は疑いありません。この事実を隠して日本だけを批判するのは歴史を正しく後世に活かす事には繋がらないでしょう。
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