本日の一言「私は序盤に死んでしまうので記録があまりありません」
皆さん、こんばんはかわうそ編集長です。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をご覧になっていますか?かわうそは、北条時政のキャラクターが好きなんですが、時政以外にも主人公の義時を振り回す兄の宗時も面白いキャラだと思います。
ドラマでは単純で思い込んだらすぐ実行の落ち着きがない人物として描写されている宗時ですが、実際の宗時についての史料は少なく性格についてもよくわかっていないようです。今回はその事を踏まえて真実の北条宗時を見ていきましょう。
この記事の目次
北条時政の嫡男として誕生
北条宗時は伊豆国の豪族、北条時政の嫡男として誕生します。ただ、通称が三郎であることから上に兄が二人いた可能性もありますが、早くに死んでしまったか、当時は日常茶飯事だった土地を巡る小競り合いで討ち死にしたか定かではありません。
宗時の生母は伊豆の大豪族、伊藤祐親の娘で、義時や阿波局とは母親が同じであるようです。宗時の兄弟には北条政子もいますが、生母は宗時とは違い、時子という同母姉妹がいたそうです。
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三善康信の勘違いで頼朝挙兵
しかし、宗時の運命はこの腹違いの妹、政子により大きく変わりました。
政子は平治の乱に敗れて伊豆に流されていた源頼朝と恋仲になり、やがて妻になったのです。政子の夫の頼朝は治承4年(1180年)以仁王の反平家挙兵の失敗により、平家による源氏の残党狩りが伊豆で開始されたと知ります。
この情報は頼朝と繋がりがあった京都の下級貴族三善康信からの手紙でした。
ところが康信は早とちりをしていたようで、清盛が伊豆に兵を出したのは以仁王と共に兵を挙げた源頼政が伊豆に知行を得ていて、ここに源広綱のような息子がいたからであり頼朝については名前も知らないありさまでした。ちなみに知行とは支配している領地の事です。
そんな事とは知らない頼朝「わしは以仁王の挙兵には参加していないのにどうして討たれるのか」と嘆き「もういい!どうせ討伐されるなら一か八か挙兵する!」と逆切れして兵を挙げる事を決意します。
もし、康信が正確な情報を頼朝に伝えていたら頼朝は挙兵に乗り遅れて甲斐源氏の武田信義の傘下に入る事になり、鎌倉幕府は誕生していなかったかも知れません。
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頼朝に従い山木兼隆屋敷を襲撃
北条家の当主、時政は頼朝を担ぐことに決め、北条が頼朝の中心兵力になります。こうして頼朝は300騎の味方を集めると、占いにより治承4年(1180年)8月17日に挙兵する事に決定。
ところが大雨で襲撃に加わる佐々木四兄弟が17日に北条邸に到着できず17日の襲撃は断念、ようやく夕方にやってきたので、予定を1日ずらし、18日未明に伊豆目代山木兼隆邸を奇襲しました。
時代を大きく揺り動かす事になる山木兼隆邸の襲撃ですが、ドラマでは宗時が先陣を務めているものの、吾妻鏡では、宗時について具体的な記述はありません。
父である時政は頼朝と入念に密談をし、山木兼隆を討つと同時に後見役で勇者である堤信遠を討たせようと佐々木兄弟を派遣して襲撃させて首を獲らせ、自分たちは山木邸を襲撃するなど軍略のある所を見せています。しかし、義時や宗時についての記述はなく軍記物の源平盛衰記で父の時政、弟の義時とともに襲撃隊の先導役を務めたとある程度です。
その日、山木邸は三島大社の祭礼のせいで人員が出払い、戦いは頼朝有利となります。兼隆は最後に加藤景廉に討たれ、屋敷には火が掛けられ燃え落ちてしまいました。
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石橋山の戦い
戦いに勝利し伊豆国衙を占領した頼朝ですが、手勢は300に過ぎず平家家人大庭景親や豪族の伊東祐親に捕捉されると危ない状態でした。そこで頼朝はすでに盟約を結んでいた相模国の豪族、三浦一族の到着を待ちますが、なかなかやってこないのでこちらからも合流しようと考え、北条館から相模に向けて300騎を従えて進撃します。
しかし、頼朝の動きはすでに大庭景親や伊藤祐親につかまれていて、頼朝は相模と伊豆を隔てる酒匂川の近く、石橋山に陣を構えます。これに従い、大庭景親と伊東祐親も付近に陣を敷きました。大庭の軍勢は3000余りだったそうです。
この頃、三浦氏は酒匂川の近くまで来ていて、行きがけの駄賃に大庭景親の縁者の城を焼き、その黒煙が石橋山の大庭景親の目にも見えたそうです。
すでにあたりは黄昏時でしたが、景親はこのまま翌朝になれば三浦一族が頼朝に加勢して問題が厄介になると考え、頼朝に夜襲を掛ける事にしました。その日、伊豆には台風が襲来していたのか、あたりは強風と大雨で頼朝軍は10倍の大庭軍相手に奮戦しますが勝てずに山に逃げ込みます。
大庭勢は山探しをして頼朝を探そうとしますが平家についていた飯田家義が極秘に六騎を割いて景親を襲わせるなどして頼朝を逃がし、また景親とは一族の梶原景時は、頼朝の潜んでいそうな洞窟を知りながら景親の袖を引いて別の場所に誘導するなどして、頼朝が逃げるのをアシストしました。
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時政や義時とは別ルートを辿り命運が分れる
「あれ?これ石橋山の戦いの話だっけ?」と思った皆さんお待たせしました。ここでようやく北条宗時が登場します。時政と宗時、義時の3名は頼朝の郎党として景親と戦っていましたが、疲れ果てて山登りが出来ないので頼朝に従う事ができません。
そこで、時政は、自分についていくと言った加藤景員や宇佐美祐重など六名に頼朝を探して供をするように命じ、六名は断崖をよじのぼり頼朝や土肥実平と合流しました。
しかし、土肥実平が「もう勝負はついたので解散して次の機会を待とう。ここは私の領地だから頼朝様は何とか匿ってみせる」と言ったので、全員でいつかの再会を誓い、それぞれが涙ながらに落ちていく事になりました。
この時、時政と義時は箱根の湯坂道を通って甲斐国の武田信義を頼ろうと進んでいきますが、宗時は別のルートを辿り土肥から桑原に降りて平井郷に向かおうとする途中に伊東祐親の軍勢に包囲され平井久重に射殺されます。やっと始まった源平合戦の序盤で宗時は命を落としたのです。
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時政が別ルートを通った理由
北条宗時の記述はここで終わりです。吾妻鏡における出番は治承4年の4か月しかありません。気になるのは父や弟の義時とは異なるルートを辿り、どうやら北条の郷に逃げようとしていた事ですが、どうして別行動をとったのでしょうか?
かくたる証拠はありませんが、逃げる場所を分散する事で少しでも一族が生き残る確率をあげるようにしたという事が考えられます。
吾妻鏡では、石橋山の敗戦後に頼朝と合流してから安房まで渡海し、そこから頼朝の命令で甲斐を目指す時政ですが、実際は頼朝を見捨て甲斐に向かい、その後、富士川の合戦前に頼朝と合流したとする史料もあります。
これを考えると宗時も北条を残すために、あえて一族全員が同じ道を取らずに伊豆に戻ろうとしたとも考えられるのです。しかし、イチかバチかの分散戦術でジョーカーを引いたのは宗時の方でした。彼は北条の名が世に轟く前に父と弟を生かすために犠牲になったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条宗時は吾妻鏡の前半に少しだけ出てきて消えてしまう人物です。大河ドラマでは片岡愛之助さんが演じていますが、そう長期間出演する事は無いでしょう。ドラマの宗時が生き急ぐように空回りしているのは、自分の人生が残り少ない事を知っているからなんでしょうか?
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