明治維新により日本は士農工商の封建社会を脱して四民平等を達成しました。これは何も人間に上下があってはいけないという平等思想だけでなく、それまで武士にのみ握られていた国防の義務を国民全部が負担する事も意味します。
その為、徴兵令も施行され国民皆兵が実現するのですが、一方で四民平等と逆行して、明治維新で生まれた身分もありました。それが今回紹介する華族です。
華族の概要とは?
華族は、明治新以前には上級公家の清華家を指す呼称でしたが、明治維新以後は公家や大名、維新に功績があった家を華族に昇格させ、特権を与え天皇を守る藩屏とする構想が浮上、その特権階級を華族と名付けます。
華族制度は明治維新直後から構想されましたが、明治17年(1884年)の7月7日に華族令が制定され、華族に任命された家の当主は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵のランクで爵位を与えられました。
華族の分類は上級の公家に由来する堂上華族、江戸時代の大名家に由来する大名華族、維新の功績に由来する勲功華族、臣籍降下した元皇族の皇族華族等があり昭和22年の日本国憲法で無効になるまで、全体では1011家の華族が存在したそうです。
しかし、華族として爵位を受けられるのは家族家の当主の男子戸主だけであり、女子戸主や、その家族に爵位が与えられる事はなく、華族の身内というだけで、進学以外では特権も持ってはいませんでした。
ただ、前述した通り、華族は四民平等に新たな壁を造る特権階級として最初から批判があり、自由民権論者の板垣退助のように、当人は渋々爵位を受けて華族になったものの、息子には爵位を相続しないで断絶させた人や、スキャンダルを起こして世間を騒がす華族も多く、必ずしも天皇を守る藩屏として機能しなかった部分もあります。
また爵位は返上する事や剥奪される事もあり、経済的な困窮やスキャンダルで爵位を返上したり剥奪されたりして庶民に戻った旧華族もいます。
華族の特権
華族は皇室を守る役割を期待されたので、一般庶民にはない特権が付与されていました。例えば司法では、勅任官や奏任官同様に民事裁判への出頭を求められる事がありません。
さらに、華族の家格を守るために1886年の華族世襲財産法により公告の手続きで世襲財産を認められました。世襲財産に指定された財産は、第三者が抵当権や質権を主張できなくなりますが、それは同時に当主が世襲財産を売却できなくなる事を意味し、債権者からの抗議も絶えないので、1915年には当主の意志で世襲財産の解除が出来るようになっています。
教育面では、華族の子弟は、学習院に無試験で入学高等科までの進学が保証され、1922年以前は帝国大学に欠員があれば、学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できました。旧制高校の定員は、帝大の定員と大差がない上に、旧制高校の卒業者の1割は毎年病気などで進学を辞退していたので学校や学部さえ問わないなら、華族出身者は、帝国大学卒業の学歴を容易に手に入れられたようです。
また、華族は1889年の大日本帝国憲法により貴族院議員となる義務を負っていました。これにより30歳以上の公公爵議員は終身議員に、伯爵、子爵、男爵議員は互選で7年の任期を務めています。
こうしてみると、白爵、子爵、男爵は公侯爵よりも待遇が悪そうですが、そうでもなく公侯爵は議員になっても無給ですが、互選の伯爵、子爵、男爵議員は衆議院議員と同レベルの歳費が出たので、経済的に裕福ではない華族には、家計の足しになっていました。
それから、皇族の結婚相手は華族と定められていた事から華族は皇居へも出入りできました。戦前には一般庶民が皇居に出入りする事は出来なかったのでこれも特権です。
華族の進路
華族制度の発足の当初は貴族院議員として、または軍人や官僚として率先して国家に貢献する事が期待されていました。例えば、陸軍士官学校には明治10年代に華族子弟のための特別な予科が置かれましたが、希望者は少なく、希望者にも虚弱体質が多く直に廃止されています。
進路として一番適性があると思われたのは宮内省で、特に公家である堂上華族は、皇室との縁が深く宮中技芸に詳しいので適職と呼べ、歴代天皇も堂上華族の就任を喜びました。
宮内省以外では、商工省や外務省、逓信省等に入った華族がいますが、立身出世主義の官僚社会では、育ちがよくおっとりした華族出身者は冷淡な目で見られていたようで、木戸孝允の孫、木戸幸一のように、ある程度のキャリアを積んでから宮内省に転じるケースが多いようです。
恵まれた家庭環境と経済状態を活かして、学問に進む華族も多く、徳川林政史研究所を開いた徳川義親、鳥類学の蜂須賀正氏、英文学の岩倉具栄や、陸軍大将大山巌の子で陸軍から考古学者に転じた大山柏もいます。
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困窮する華族
華族は、上級公家や大名諸侯の華族のように、多大な土地や屋敷などの財産を保有している経済的に裕福な人々もいましたが、奈良貴族をはじめとする中級以下の大半の華族は経済基盤が貧弱で生活に困窮する人々が出てきました。
これは、華族の家格を維持したり、同じ華族との付き合いに多大な出費を必要としたからです。明治政府は藩屏の数を維持しようと、華族財政救済の政策を採ったものの、華族の身分を返上する家は後を絶ちませんでした。
富裕だった大名華族も、華族銀行として機能していた十五銀行が緊急恐慌の最中の昭和2年4月21日に経営破綻すると多くの財産を失い没落する人々が大勢でました。華やかに見える華族ですが、その大半の家の実情は経済的に火の車という状態だったのです。
華族とスキャンダル
華族は現代の芸能人のように庶民の好奇心や嫉妬心の対象であり、婦人画報のような雑誌には華族子女や夫人のグラビアが掲載される事が多くありました。
その中で華族の私生活も、毎回のように雑誌のゴシップとして取り上げられ、柳原白蓮の駆け落ち事件や、芳川鎌子とお抱え運転手の千葉心中事件。不良華族の奔放な自由恋愛や乱交パーティーのような数々のスキャンダルが新聞や雑誌を賑わしていました。
このような華族の質の低下は、いかに取り締まっても繕いようもなく華族不要論に拍車を掛ける事になります。
一方で、昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う革新華族が戦前昭和の政界における一潮流となっていきました。戦前に三度も首相を務めた近衛文麿、東条内閣の組閣を昭和天皇に上奏した内大臣木戸幸一、有馬頼寧、原田熊雄などが知られています。
華族の廃止
明治17年(1884年)から続いた華族は多くの物議を醸しながら大東亜戦争敗戦後の1947年5月3日。法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典の特権付与を否定した日本国憲法の施行で63年間の歴史に幕を下ろしました。
当初、昭和天皇は、全ての華族が一斉に廃止される事を惜しみ、堂上華族だけでも残せないか?という意向を持っていて、同じく男爵であった幣原喜重郎首相もその点を連合国と交渉する予定でしたが、岩田司法大臣が、
「この空前の変革の時に、華族存続の議論などを持ち出せば内外にどう思われるか」と懸念を表明して反対し、閣僚も同調したので結局断念されました。しかし、旧華族になった人々は霞会館と名称変更した旧華族会館で、現在でも親睦を続けています。
日本史ライターkawausoの独り言
日本の華族は西洋の貴族とは随分違い、行動に制約が多く弱々しい印象です。元々、天皇を守るべく人工的に造られた地位で、西洋貴族のような叩き上げの大土地所有者ではなかった事も関係しているのでしょう。経済的に困窮し爵位を返上する華族が多かったのも、特権より義務の方が大きかったからではないかと思えますね。
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