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大江広元とはどんな人?鉄の心を持つ鎌倉幕府行政トップの生涯【鎌倉殿の13人】

30/03/2022


大江広元 鎌倉

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12話「亀の前事件」には京都の三善康信(みよしやすのぶ)の推挙として、13人の合議制にも名を連ねる大江広元(おおえのひろもと)が登場します。広元は優れた行政手腕と外交官としての策謀と度胸を持ち、官位では頼朝に継ぐナンバー2でした。

 

行政事務の全般を取り仕切った大江広元

 

今回はすぐれたバランス感覚で武家政権を安定に導いた名宰相、大江広元を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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久安4年下級貴族の家に誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

大江広元は久安(きゅうあん)4年(1148年)頃に誕生したと考えられています。大江を苗字(みょうじ)として名乗るのは晩年のことで生涯のほとんどは中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていましたが、この記事では有名な大江広元で統一します。

 

出自については確かな事が分らず、「江氏家譜(こうしかふ)」では藤原光能(ふじわらのみつよし)の息子とされ母の再婚相手である中原広季(なかはらのひろすえ)の元で養育されたとします。

 

また、尊卑分脈所収(そんぴぶんみゃく・しょしゅう)の「大江氏系図(おおえしけいず)」では大江維光(おおえのこれみつ)を実父、中原広季を養父と記し、逆に「続群書類従(ぞく・ぐんしょるいじゅう)」所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としています。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

ここから分かるのは大江広元が下級貴族の出身で、若い頃はことさら記録に残される事がなかった無名の人という事実です。広元は儒教を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)の学生として外記(げき)と呼ばれる太政官(だじょうかん)の行事を文書で記録する任務につきました。地位は大外記(だいげき)少外記(しょうげき)がありましたが、官位は正七位(しょうなない)という下級官僚です。

 

その後、広元は明法博士(みょうほうはかせ)検非違使(けびいし)左衛門大尉(さえもんだいじょう)掃部頭(かもんのかみ)兵庫頭(ひょうごのかみ)大膳大夫(だいぜんだいふ)と昇進していきますが、それでも官位は従五位上(じゅごいのじょう)、止まりでした。

 

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はじめての平安時代

 

 

兄、中原親能の仲介で鎌倉に入る

初代・征夷大将軍、源頼朝

 

名もなき下級官僚として人生を終えるはずの広元の運命を変えたのは兄の中原親能(なかはらのちかやす)でした。

 

中原親能は、権中納言源雅頼(ごんちゅうなごん・みなもとのまさより)の家人として在京していましたが、幼い頃に相模国で養育され流人の頼朝と近しい間柄でした。

 

平家の総帥・平清盛

 

しかし、頼朝の挙兵から4ヶ月後。この事実が平家にバレ、平時実(たいらのときざね)が親能を尋問(じんもん)するために雅頼の家宅を捜索。危険を察知した親能は出奔(しゅっぽん)し頼朝を頼り鎌倉に逃げて家来になってしまいました。

 

平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

こうして鎌倉入りした親能は源義経(みなもとのよしつね)が率いる平家追討軍(へいけついとうぐん)に同行、朝敵(ちょうてき)となった源義仲(みなもとのよしなか)宇治川(うじがわ)の戦いで撃破し京都に帰還します。この時、親能は弟の広元を頼朝に推挙。かくして下級官僚だった広元は頼朝の知遇を得て鎌倉で活躍する事になります。

 

大河ドラマでは、三善康信が推挙していますが、史実は兄の親能により広元の運命は開ける事になりました。

 

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政所別当に就任

源頼朝に重宝された大江広元

 

鎌倉では武家政権が出来たばかりで実務が出来る官僚がとても不足していました。頼朝は実務官僚として有能な広元を高く評価し、公文所別当(くもんじょべっとう)(長官)に抜擢されます。公文所とは公文書の管理のみならず、指揮、命令、政務、財政、徴収、訴訟など行政全般を司る忙しい役所です。

 

公家同士の会議(モブ)

 

やがて頼朝が平家を滅ぼし、奥州藤原氏を討伐して二品(にほん)右大将(うだいじん)に叙任されると公文所は政所(まんどころ)と改称され、広元は引き続き長官として行政事務の全般を取り仕切りました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

御家人の取次役を務める

坂東武士の言い分を聞いて源頼朝に取り大江広元

 

広元は行政マンだけでなく、文治元年(1185年)からは御家人の訴えを頼朝に取り次ぐ申次(もうしつぎ)を務めます。乱暴者が多い坂東武者の言い分を冷静に聞いて、頼朝に取り次ぐ事を決めるのは広元が頭脳だけではなく度胸も据わっていた事を裏付けます。

 

鉄の心を持つ大江広元

 

広元は成人してより、一度も涙を流した事がない鉄の心の持ち主で、情に流されず、常に公平・公正な態度を取り続けたとされています。

 

鎌倉を出禁される源義経

 

さらに広元は頼朝に義経追討を名目として、後に鎌倉幕府の全国支配の礎になる守護(しゅご)地頭(じとう)の設置を提案して頼朝に信頼されました。広元は壇ノ浦(だんのうら)で平家が滅んでより、頼朝の初の上洛までの間、毎年のように頼朝の使者として鎌倉から京都に上洛して滞在し朝廷と幕府の関係作りに奔走。

 

大江広元は官位では源頼朝に継ぐナンバー2

 

その功績は大きく、頼朝死後に定められた13人の合議制では、広元は時政、義時に次いで第三位の序列でした。ちなみに官位だけでみると正四位の高さで、正二位の頼朝に次ぎ、時政や義時を引き離しナンバー2です。

 

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源頼朝

 

 

梶原景時の乱後、北条氏と連携

源頼家 鎌倉殿の13人

 

広元は頼朝の後を継いだ二代将軍頼家(よりいえ)を補佐する立場でしたが、同じく頼家を補佐する梶原景時(かじわらのかげとき)が66人の御家人の弾劾状(だんがいじょう)で失脚してより御家人筆頭である北条氏と一貫して連携する立場を取りました。特に嫡男の親広(ちかひろ)執権、北条義時の娘を妻にし、北条氏の信頼も厚かったようです。

 

和田義盛を朝敵とし多くの味方をつけさせた大江広元

 

北条義時と侍所別当(さむらいどころべっとう)和田義盛(わだのよしもり)が激突した和田合戦では終始一貫して義時を支持、元々義盛と義時の私闘だった合戦を3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)御教書(みきょうしょ)を出させる事で和田義盛を朝敵とし、義時に多くの御家人を味方につけさせ勝利させる事にも成功しています。

 

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源義経

 

 

承久の乱を幕府勝利に導く

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

大江広元の最期にして最大の功績が承久の乱(じょうきゅうのらん)に際しての決断です。当時、朝廷の権威は衰えたとはいえ強大で、幕府内でも箱根を盾にして鎌倉で籠城しようとする意見が多数でした。

 

朝廷(天皇)

 

しかし、広元は守勢に出てしまえば後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に味方する武士が増加して逆効果になると説き、むしろ打って出て京都に攻め上るべきと発言します。この時、広元は嫡男の親広が後鳥羽上皇に味方し親子で敵対していましたが、その苦しい胸中を顔に出しませんでした。

 

常に勝ち馬を当てる北条義時

 

幕府の心配に反して北条義時が征討軍を出すと、各地の御家人が次々と幕府に味方してその総数は19万人となり、承久の乱はわずか1ヶ月で鎌倉幕府の完全勝利となるのです。

 

それから4年後の嘉禄(かろく)元年(1225年)広元は82歳で大往生しますが、奇しくもその年は、鎌倉幕府のゴッドマザー北条政子が亡くなった年でした。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

大江広元は鎌倉政権に不足していた行政官僚、外交官の2つの能力を合わせ持つ人物でした。全国に守護・地頭を設置する事や承久の乱での積極攻勢など、広元より出た提案は多く、関東に武家政権を打ち立てるのに決定的な役割を果たしたのです。

 

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北条義時

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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