NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12話「亀の前事件」には京都の三善康信の推挙として、13人の合議制にも名を連ねる大江広元が登場します。広元は優れた行政手腕と外交官としての策謀と度胸を持ち、官位では頼朝に継ぐナンバー2でした。
今回はすぐれたバランス感覚で武家政権を安定に導いた名宰相、大江広元を紹介します。
久安4年下級貴族の家に誕生
大江広元は久安4年(1148年)頃に誕生したと考えられています。大江を苗字として名乗るのは晩年のことで生涯のほとんどは中原広元と名乗っていましたが、この記事では有名な大江広元で統一します。
出自については確かな事が分らず、「江氏家譜」では藤原光能の息子とされ母の再婚相手である中原広季の元で養育されたとします。
また、尊卑分脈所収の「大江氏系図」では大江維光を実父、中原広季を養父と記し、逆に「続群書類従」所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としています。
ここから分かるのは大江広元が下級貴族の出身で、若い頃はことさら記録に残される事がなかった無名の人という事実です。広元は儒教を学ぶ明経道の学生として外記と呼ばれる太政官の行事を文書で記録する任務につきました。地位は大外記と少外記がありましたが、官位は正七位という下級官僚です。
その後、広元は明法博士、検非違使、左衛門大尉、掃部頭、兵庫頭、大膳大夫と昇進していきますが、それでも官位は従五位上、止まりでした。
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兄、中原親能の仲介で鎌倉に入る
名もなき下級官僚として人生を終えるはずの広元の運命を変えたのは兄の中原親能でした。
中原親能は、権中納言源雅頼の家人として在京していましたが、幼い頃に相模国で養育され流人の頼朝と近しい間柄でした。
しかし、頼朝の挙兵から4ヶ月後。この事実が平家にバレ、平時実が親能を尋問するために雅頼の家宅を捜索。危険を察知した親能は出奔し頼朝を頼り鎌倉に逃げて家来になってしまいました。
こうして鎌倉入りした親能は源義経が率いる平家追討軍に同行、朝敵となった源義仲を宇治川の戦いで撃破し京都に帰還します。この時、親能は弟の広元を頼朝に推挙。かくして下級官僚だった広元は頼朝の知遇を得て鎌倉で活躍する事になります。
大河ドラマでは、三善康信が推挙していますが、史実は兄の親能により広元の運命は開ける事になりました。
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政所別当に就任
鎌倉では武家政権が出来たばかりで実務が出来る官僚がとても不足していました。頼朝は実務官僚として有能な広元を高く評価し、公文所別当(長官)に抜擢されます。公文所とは公文書の管理のみならず、指揮、命令、政務、財政、徴収、訴訟など行政全般を司る忙しい役所です。
やがて頼朝が平家を滅ぼし、奥州藤原氏を討伐して二品、右大将に叙任されると公文所は政所と改称され、広元は引き続き長官として行政事務の全般を取り仕切りました。
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御家人の取次役を務める
広元は行政マンだけでなく、文治元年(1185年)からは御家人の訴えを頼朝に取り次ぐ申次を務めます。乱暴者が多い坂東武者の言い分を冷静に聞いて、頼朝に取り次ぐ事を決めるのは広元が頭脳だけではなく度胸も据わっていた事を裏付けます。
広元は成人してより、一度も涙を流した事がない鉄の心の持ち主で、情に流されず、常に公平・公正な態度を取り続けたとされています。
さらに広元は頼朝に義経追討を名目として、後に鎌倉幕府の全国支配の礎になる守護・地頭の設置を提案して頼朝に信頼されました。広元は壇ノ浦で平家が滅んでより、頼朝の初の上洛までの間、毎年のように頼朝の使者として鎌倉から京都に上洛して滞在し朝廷と幕府の関係作りに奔走。
その功績は大きく、頼朝死後に定められた13人の合議制では、広元は時政、義時に次いで第三位の序列でした。ちなみに官位だけでみると正四位の高さで、正二位の頼朝に次ぎ、時政や義時を引き離しナンバー2です。
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梶原景時の乱後、北条氏と連携
広元は頼朝の後を継いだ二代将軍頼家を補佐する立場でしたが、同じく頼家を補佐する梶原景時が66人の御家人の弾劾状で失脚してより御家人筆頭である北条氏と一貫して連携する立場を取りました。特に嫡男の親広は執権、北条義時の娘を妻にし、北条氏の信頼も厚かったようです。
北条義時と侍所別当、和田義盛が激突した和田合戦では終始一貫して義時を支持、元々義盛と義時の私闘だった合戦を3代将軍源実朝の御教書を出させる事で和田義盛を朝敵とし、義時に多くの御家人を味方につけさせ勝利させる事にも成功しています。
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承久の乱を幕府勝利に導く
大江広元の最期にして最大の功績が承久の乱に際しての決断です。当時、朝廷の権威は衰えたとはいえ強大で、幕府内でも箱根を盾にして鎌倉で籠城しようとする意見が多数でした。
しかし、広元は守勢に出てしまえば後鳥羽上皇に味方する武士が増加して逆効果になると説き、むしろ打って出て京都に攻め上るべきと発言します。この時、広元は嫡男の親広が後鳥羽上皇に味方し親子で敵対していましたが、その苦しい胸中を顔に出しませんでした。
幕府の心配に反して北条義時が征討軍を出すと、各地の御家人が次々と幕府に味方してその総数は19万人となり、承久の乱はわずか1ヶ月で鎌倉幕府の完全勝利となるのです。
それから4年後の嘉禄元年(1225年)広元は82歳で大往生しますが、奇しくもその年は、鎌倉幕府のゴッドマザー北条政子が亡くなった年でした。
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日本史ライターkawausoの独り言
大江広元は鎌倉政権に不足していた行政官僚、外交官の2つの能力を合わせ持つ人物でした。全国に守護・地頭を設置する事や承久の乱での積極攻勢など、広元より出た提案は多く、関東に武家政権を打ち立てるのに決定的な役割を果たしたのです。
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