NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人「天に選ばれた男」で頼朝の初孫として誕生したのが一幡です。頼家が無事に成長し孫も誕生した事で、頼朝は源氏の将来は安泰と思った事でしょうが、事はそう上手くは運びませんでした。
今回は頼朝の孫にして頼家の子女最初の犠牲者、一幡について解説します。
源頼家と若狭局の間に誕生
一幡は建久9年(1198年)鎌倉幕府2代将軍となる源頼家の嫡男として誕生しました。生母は比企能員の娘の若狭局であり、公暁は同母弟、あるいは異母弟と言われています。
初孫の誕生を喜んだ頼朝ですが、翌年には相模橋の落成記念で橋を馬で通過した帰りに落馬。その時は何でもなかったのですが、しばらくして脳梗塞らしき症状を発症して衰弱し建久10年1月13日に病死します。
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父、頼家が危篤状態に
嫡男の頼家は、それと同時に二代目鎌倉殿として家督を相続、一幡は1歳にして後継者になりました。ここからしばらくは一幡にとって平穏無事な日々が続きますが、建仁3年(1203年)7月に頼家が急病に罹り危篤状態に陥ります。
これを受けて次の将軍を巡り、頼家の弟の千幡を推す北条家と頼家の子の一幡を押す比企能員との間で激しい抗争が起きました。
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吾妻鏡による解説
鎌倉幕府の公式歴史書、吾妻鏡によると、比企氏と北条氏の対立はこうでした。
北条時政は頼家が死んだら、一幡には関東28カ国の守護と地頭職を与え、時政が後盾となっている関西38カ国の守護・地頭は千幡が相続すると取り決めた。これに対して能員が反発、頼家に対して「時政は千幡を担いで謀反を企んでいる」と讒言。北条政子は、この陰謀を偶然耳にし、父である時政に告げ、時政は先手を打って能員を名越にあった自分の屋敷に招いた。
そしてあらかじめ伏せていた仁田忠常と和田義盛が、能員を捕らえて竹藪に引きずり込んで首を落とす。頼家が危篤なため尼将軍の政子が幕府を代表し、政子は比企氏を滅ぼせと御家人に号令。
比企氏は小御所と呼ばれた一幡の屋敷に全員が籠城し、やがて屋敷には火が掛けられ6歳の一幡以下、ほぼ全員が殺害された。このようにあります。吾妻鏡は北条氏により描かれた歴史書なので比企能員が家督の分割に怒り、北条氏を滅ぼそうとしたので正当防衛で返り討ちにしたという記述です。
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愚管抄の記述
同時代の天台宗の僧侶である慈円の愚管抄には、また別の視点から比企の動きが書かれています。
重病に罹った頼家は、家督を6歳の一幡に全て譲ると発表し危篤状態に陥った。しかし、頼家から一幡の家督が通ると外戚の地位を奪われる北条時政は反発。比企能員を殺し頼家の決定を反故にすべく、能員を名越の自邸に呼び出した。
比企能員の家族は万が一の事があるので着物の下に鎧を着るように進言するが能員は「そんな事をすれば、私が北条氏を疑っていると思われ、今後のためにならない」と拒否。ところが家族の予感が的中、能員は時政に殺害された。
時政は、ただちに京都に対し、頼家が死んで弟の千幡が3代将軍になる事を認めるように使者を派遣。同時に北条政子が比企氏は謀反人であるとして御家人を総動員し小御所にいた比企一族を皆殺し一幡も殺害された。
これが愚管抄の記述ですが、慈円は北条氏に気を遣う必要がないので真実に近いと考えられています。
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頼家が生き返り時政は頼家謀殺を実行
これで、頼家がそのまま死んでいれば北条氏の陰謀は完璧でした。しかし、運命のいたずらで百に1つも助かるまいと思われた頼家が息を吹き返します。
まもなく頼家は時政の手で妻と最愛の息子一幡が殺された事実を知りました。激怒した頼家は、仁田忠常と和田義盛に北条氏を滅ぼせと命令を出します。
比企能員殺害の実行犯である仁田忠常は右往左往していましたが、和田義盛は頼家を見限り、時政に北条氏討伐の命令が下った事を打ち明けます。
時政は、頼家が生きていれば北条氏は滅びると考えて手勢を連れて御所に押し込み、頼家を伊豆修善寺に幽閉して将軍職を下ろし、そこに時政の孫である千幡を据えたのです。この千幡が3代将軍源実朝になります。
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終わらない血の報復
6歳で命を奪われた一幡ですが、惨劇はこれで終わりませんでした。一幡の弟の善哉が助命され成長した後で鎌倉に帰還し、鶴岡八幡宮寺の別当に就任しました。
その後、善哉は公暁と名を改め、実朝の猶子(相続権がない息子)にもなりますが、建保7年(1219年)右大臣就任の挨拶で鶴岡八幡宮に来ていた実朝を数名の僧兵と共に襲撃し、父の仇として殺害したのです。こうして因果は巡り、頼朝以来の源氏将軍の系統は3代で途絶えてしまいました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、頼朝の初孫にして頼家の嫡子、将来の源氏将軍になるはずだった一幡を解説しました。僅か6歳で一族もろとも殺される事になった一幡の悲劇的な最期は、殺伐とした鎌倉幕府の権力闘争をまざまざと見せつけてきますね。
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