公暁は2代将軍、源頼家の子で一幡の弟です。
鎌倉殿の13人では、まだ少年ですが長じるに従い、父を殺して将軍に即位した実朝を憎み、20歳の時、大雪の中で実朝に斬りつけて首を獲り復讐を果たしました。今回は、父の仇を討つために義理の父を殺害した宿業の塊、公暁について解説します。
この記事の目次
源頼家の子として誕生
公暁は幼名を善哉と言い、2代将軍源頼家の子で一幡とは同母兄弟、あるいは異母兄弟とされています。
生母については、吾妻鏡では足助重長の娘辻殿、尊卑文脈では一幡と同じ若狭局。「源氏系図」によれば三浦義澄の娘という説もあります。生母については諸説ありますが、頼家が父であるという事は共通しています。
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父が北条氏に討たれるも助命され仏門に入る
建仁3年(1203年)善哉の父頼家が重病に倒れ、危篤状態に陥りました。重病は2カ月以上続き、とても助かるまいという空気が鎌倉に流れ3代目の将軍を誰にするかで幕府の二大勢力比企氏と北条氏が衝突します。
そして、頼家の後継者として、一幡の弟千幡を推す北条時政が先手を打ち、比企能員を屋敷に呼び出して暗殺。さらに頼家が後継者と定めた一幡や比企一族まで皆殺しにしてしまいました。
これで頼家が死んでいれば、問題は大きくならないのですが、運命のいたずらか頼家は息を吹き返してしまいます。北条時政は、もはや引き返せぬと頼家を強引に将軍職から引きずり降ろすと伊豆に流刑にした上に翌年殺害しました。
兄である一幡は殺されましたが、善哉は乳母夫である三浦義村に保護され助命されました。
しかし、それは源氏を継ぐ事を諦め、河内源氏の氏寺である鶴岡八幡宮に入り僧となる事が条件だったのです。
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実朝の猶子となり京都に修行に出る
建永元年(1206年)6月7歳になった善哉は祖母である尼将軍政子の屋敷に移り着袴の儀式をおこないその後、3代将軍になった叔父の源実朝の猶子となりました。なお猶子とは財産相続権を持たない子の事です。
建暦元年(1211年)9月に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家。
受戒を受ける為に上洛して園城寺において公胤の門弟として入室。貞暁の授法の弟子となり頼暁という戒名を受けて後、公胤の弟子になって公暁と戒名を与えられました。
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18歳で鶴岡八幡宮別当になるも行動に異変が生じる
建保5年(1217年)6月、公暁は18歳で鎌倉に戻り、政子の意向で鶴岡八幡宮寺のトップ別当に就任します。この頃から公暁の行動には異変が起きていました。例えば寺の長でありながら髪を下ろそうともせず、長いままにしている等、僧侶である事を拒否し、いつでも武士に戻れるように準備してると取れる行動がうかがえます。
NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人では比企尼が生き残り、醜い妖婆の姿になり公暁を唆す筋立てになっていますが、史実ではそのあたりは不明です。
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大雪の中、義理の父実朝の首を討つ
建保7年(1219年)1月27日、雪が60センチも降りしきる中、実朝が右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮に参詣します。吾妻鏡によると儀式を済ませ夜半、実朝が神宮を退出しようと石段を下りると頭巾を被った公暁が襲い掛かりました。
そして、実朝が衣の裾を長ーく伸ばしている所を踏んづけて転倒させ「親の仇はかく討つぞ」と叫んで頭に斬りつけ首を落とします。
公暁には3~4人の法師の仲間がいて、供の人間と切り結び、ついで松明を照らして太刀持ちをしていた源仲章を北条義時と間違えて斬り倒しました。
その後、公暁は八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ、父の仇を討ち取ったり」と大声をあげて逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士を尻目に姿を消したとあります。
しかし、同時代の史料「愚管抄」では公暁は大声は挙げず、鳥居の外に控えていた武士たちは公卿たちが逃げてくるまで全く異変に気付かなかったとあります。わざわざ大声を挙げて名乗るのは「私が犯人です。捕まえて下さい」というようなものなので常識的に考えると愚管抄の記述が正しそうです。
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三浦義村に騙し討ちにされ20歳で死去
鶴岡八幡宮から姿を消した公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の備中阿闍梨宅に帰還すると、食事の間も実朝の首を離さず乳母夫の三浦義村に使いを出しています。
そして「我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と告げました。
連絡を受けた義村は「迎えの使者を送ります」と偽り北条義時にこの事を告げます。義時は公暁を誅殺する事を決定、義村は獰猛な公暁を討つべく手練れの長尾定景を差し向けました。
愚管抄によると公暁は義村の迎えが来ないのを怪しみ、待ちきれずに雪の中を鶴岡山の斜面を登って義村宅に向かいますが、途中で長尾定景等追手と遭遇。
ここから公暁は奮戦し追手を斬りながら進み、義村宅の板塀までたどり着くものの、塀を乗り越えようと背中を見せた所で斬られ壮絶な討死を遂げます。20歳でした。
なお、『「吾妻鏡」によると実朝の首は所在不明で頭の代わりに髪の毛が入れられたとしていますが、「愚管抄」には岡山の雪の中から実朝の首が発見されたとあり異同があります。
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公暁に黒幕はいたのか?
公暁の犯行は個人の復讐としては、あまりにも大胆なので昔から黒幕の存在が囁かれていました。黒幕説としては、①北条氏による頼朝の血筋の族滅説。②北条氏の政敵で公暁と近い三浦氏による北条打倒の陰謀。
③逆に北条と三浦ら鎌倉御家人が共謀し成長して言う事を聞かなくなった実朝を公暁を唆して殺した説。そして④単純ながら計画が漏れなかった事から黒幕はなく公暁が数人の仲間と決行した単独犯説もあります。
または、後鳥羽上皇による幕府転覆の策謀などがありますが、いずれも確証はありません。
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日本史ライターkawausoの独り言
黒幕の話の続きですが、カワウソとしては三浦義村が怪しいと思います。それと言うのも公暁は三浦義村から追手を向けられても、義村邸を目指しているからです。
この混乱した行動には協力者である義村に裏切られた事が信じられず、とにかく義村から真実が聞きたいと思った公暁の心が隠れているように思います。あるいは義村も義時まで死んでいれば公暁を迎えて担ぐつもりが、義時が難を逃れたと知って公暁を冷酷に切り捨てたのかも知れません。
参考文献:吾妻鏡、愚管抄 他
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