水野信元は徳川家康の母、於大の方の異母兄です。尾張知多郡と三河壁海郡に勢力を持ち、同じく知多郡で勢力を持つ戸田氏、大野佐治氏と抗争と和睦を繰り返し知多半島にゆるぎない勢力を築き、織田信秀の三河攻略に協力し、また家康と信長の清須同盟に関与しました。最盛期は24万石の国力を持った信元ですが、その勢力ゆえに信長に危険視され殺害されてしまうのです。
この記事の目次
尾張知多郡の豪族、水野忠政の子として誕生
水野信元は尾張知多郡に勢力を持つ豪族、水野忠政の子として誕生します。1543年父の死後、信元は水野宗家の家督を継いで尾張国知多郡東部と三河国碧海郡西部を領有しました。
父である忠政は松平広忠と歩調を合わせ今川氏についていましたが、信元は織田家に接近。そのために、松平広忠に嫁いだ妹の於大の方は離縁されました。こうしてみると家康が幼くして母と離れ離れになったのは伯父の元信のせいに見えますが、事態はそこまで単純ではありません。
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於大の方離縁は広忠から切り出した?
元々、広忠と於大の方の縁組を勧めたのは広忠の後見人だった松平信孝でしたが、広忠は信孝を追放しているのです。また、信元の妻は広忠と仲が悪かった松平信定の娘であり、その事から広忠が信元を信用せずに於大の方を送り返したとも考えられます。それに松平信定は織田家と婚姻関係にあり、その点も今川氏の庇護を受けていた広忠が気に入らない点でした。
映画や小説では、泣く泣く於大の方を離縁する描写が多い心優しい広忠ですが、本当は婚姻の最初から於大の方が気に入らず、嫡男の家康が誕生したタイミングで送り返したというのは、少々意地悪な考察でしょうか?
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知多半島へ覇権を広げる
広忠に縁を切られた信元は、信定の娘を介して織田家に接近、離縁された妹の於大を知多半島の豪族、阿久居の久松俊勝に嫁がせています。
織田家と結んだ信元は知多郡の平定に乗り出します。1543年に知多郡宮津城主の新海淳尚を攻め滅ぼすと、そこに亀崎城を築き、さらに成岩城主の榎本了円を滅ぼし、それぞれの城に一族を配置します。次に長尾城主の岩田安広を包囲、今川軍の援軍が来る前にこれも滅ぼしました。
同じく知多郡に勢力を持つ支流の常滑水野氏には娘を嫁がせて、信元は知多半島の横断路を確保。次に知多半島の富貴、布土、北方に勢力を持っていた豪族の戸田氏を攻撃して領地を奪い取り東三河に追いやります。
勢力を伸ばした信元は、松平広忠に揺さぶりをかけ松平氏配下の上野城主、酒井忠尚を離反させ味方に引き込みます。さらに今川氏に押されて追い詰められた戸田氏が信元との同盟を打診するとこれに応じ戸田氏は水野氏の一族となりました。
信元は、強大な勢力を背景に知多郡の有力豪族大野佐治氏とも和解し、尾張知多半島をほとんど制圧します。
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織田信秀の三河攻略をアシスト
強大化した信元のアシストを受け、知多半島を通過できるようになった織田信秀は1547年頃から三河に侵攻します。しかし、自領を攻撃された三河松平氏は果敢に反撃、1549年に信秀は三河攻略の拠点である安祥城を今川氏に奪回され三河攻略を諦め今川家と和睦しました。ここで水野信元はしれっと織田から今川に鞍替えしたと見られています。
1551年、織田信秀が感染症で急死し、織田信長が家督を継ぎますが、すぐに弟信勝を担ぐ勢力との間で内紛が起こります。この間に今川義元は、織田方勢力の引き抜きを繰り返しますが、信長も負けずに調略を仕返しています。この頃、信元は再び今川から織田に鞍替えしました。
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織田信長に窮地を救われ配下に
今川義元は信元のコウモリ野郎な動きが許せず、1554年兵を出して知多半島の信元の勢力下にある重原城を攻略。さらに緒川城、刈谷城も包囲し、信元は大ピンチに陥り織田信長に救援を求めます。
この時、信長は本拠地を舅の斎藤道三からの援軍に任せ空にするという大胆な奇策を打ち出して援軍に急行し、今川の出城である村木砦を鉄砲を使って短期間で攻略、緒川城を解放し、以後信元は信長に従属する立場となりました。
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桶狭間では甥の家康を逃がす
1560年の桶狭間の戦いでは、水野信元は甥の家康が兵糧を運び込んだ大高城の南にいて、奮戦したようです。この戦いで今川義元が信長に討たれると、信元は甥の家康が逃げられるよう落ち武者狩りの一揆勢を押しとどめたそうです。
信元は激戦で刈谷城や重原城を失いますが、今川軍が総崩れになると、すぐさま奪い返しています。
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信長と家康を仲介し清須同盟を結ばせる
その後、信元と家康は、織田家と今川家の鉄砲玉として何度も紛争を繰り返しますが、義元の後を継いだ氏真は関東に攻め込んできた上杉謙信に対応するのに手一杯で、家康の救援が出来ませんでした。
そこで、水野信元は甥の家康に対し「落ち目の今川を切って織田と結べば松平を守ることが出来る。自分が仲介の労を取ろうではないか?」と持ち掛け、家康も歩み寄り1562年に清須同盟が結ばれました。信元は以後、家康の相談役として影響力を持つと同時に、13代将軍足利義輝にも接近し幕府直臣の地位を得ています。
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主要な戦いに従軍し石高は24万石に到達
その後の信元は変わらず織田家の家臣として信長の上洛に従い、1570年の姉川の戦いでは佐和山城を攻略。1572年の三方ヶ原の戦いでは家康に援軍を出しました。
ここでは武田信玄相手に野戦を主張する家康と籠城戦を主張する信元で激しい意見対立がありましたが、家康が三方ヶ原で敗れて浜松城に逃げ戻ると、信元が代わりに出陣して兵を指揮、浜松城に松明を焚いて鉄砲隊を配置し武田軍を威嚇して家康の窮地を救いました。1575年の長篠の戦いで信元は3000の兵士を率いて従軍、当時の石高は24万石と甲斐一国に相当し戦国大名に成長しています。
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武田勝頼内通の嫌疑を掛けられ家康に殺される
しかし、信元の最後は突然にやってきました。1576年1月、佐久間信盛が信元が武田方の武将秋山信友に内通し兵糧を輸送していると信長に讒言。
信長はそれを真実として家康に信元父子の殺害を命じました。家康は腹心の平岩親吉を刺客として派遣し信元は三河大樹寺で殺害されます。
信元の領地は佐久間信盛に与えられますが、後に信盛が信長の勘気を被り、高野山に追放された後、信長の命令により「信元は冤罪だった」として水野家の旧領が信元の末弟、忠重に返還されています。
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日本史ライターkawausoの独り言
水野信元が本当に武田に内通していたのかは不明ですが、信元の死後、信元の領地が佐久間信盛に全て与えられた経緯を見ると、信長が讒言を信じたというより信長の本拠地に近い知多郡に甲斐一国に匹敵する石高を持つ外様大名がいる事が、そもそも邪魔だったのではないかという疑念が浮かびます。
この頃になると信長は身内の領地を畿内に集め、外様の領地は遠くに飛ばしているので、信元に対する処置もその一環のような気がします。水野信元は有能であったがために、晩年の信長に危険視され、お払い箱にされたとするのが哀しく理不尽ですが真実に近いのではないでしょうか?
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