久松長家は、徳川家康の生母、於大の再婚相手で尾張知多郡坂部城の城主でした。当人の活躍はさほどではありませんが、於大と長家の間に生まれた3人の子は家康の異母兄弟として皆、大名に取り立てを受けています。今回は妻のお陰で天下人の義父となる幸運を得た久松長家を解説します。
※長家は何度か改名を繰り返し、定俊を経て最後は俊勝になっていますが、煩雑なのでここでは長家で統一します。
この記事の目次
織田家と松平家の間を泳いだ久松長家
久松氏は尾張守護斯波氏に仕える国人領主で戦国期には大野城を本拠とする佐治氏と争っていましたが、1546年に佐治氏の一族より長男の久松信俊の妻を迎える事で和睦します。この和睦は松平広忠の仲介によるものとされ、久松氏が織田家に仕えつつも三河松平氏とも繋がりを持っていた事をうかがわせます。
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徳川家康の配下となり上ノ郷城を領地とする
桶狭間の戦いの後、長家は松平元康に味方し、1562年今川氏の重臣鵜殿長照が守る三河国宝飯郡西部の上ノ郷城を攻略。西郡の領主となった長家は長男の信俊に根拠地の阿久比を譲り、上ノ郷城には於大との間に生まれた次男、康元を配置しました。
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家康の「家」は久松長家から取った?
松平元康は1563年、名前を家康と改めますが、この家の字は義父である久松長家から取ったとする説もあります。しかし、その後、長家が名を俊勝に改名し、徳川氏が征夷大将軍となり家を通字としたせいで由来が分からなくなったとしています。
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家康の騙し討ちに憤慨し親子の縁を切る
その後、長家の名前が登場するのは、1576年です。この頃、織田家の重臣、佐久間信盛の讒言により水野信元が武田勝頼の家臣である秋山信友と内通しているとの情報が信長に届きました。命の危険を感じた信元は、妹の於大の夫である長家を頼り、さらに長家の主君である甥の徳川家康を頼りました。
家康は表面上、伯父の信元を匿うように見せかけて三河大樹寺に呼び寄せますが、そこで腹心の平岩親吉に命じ信元を殺害します。収まらないのは長家でした。義理の息子である家康に利用され妻の兄を殺す手助けをしてしまったと知った長家は激しく失望し
「こんな汚い計略があるとも知らず、信元殿をお迎えして殺してしまったのは残念至極!世間の人に何と思われる事であろうか…拙者は徳川殿を深く恨み、親子の絆もこれっきりとしたい」と言うと出奔し西郡城に隠遁しました。この時、於大と於大の産んだ家康の異母兄弟たちは家康に引き取られたとされます。
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佐久間信盛により子供と孫まで殺される
ところが話はそれだけでは終わらず、信長は長家の長男で佐久間信盛の配下になっていた久松信俊に対しても、過去に久松家が一向宗を保護していた事を理由に謀反の嫌疑をかけ、俊勝は憤慨して陣中で自殺しました。さらには佐久間信盛の軍勢が阿久津の信俊の領地に攻め込み、長家の孫2人も殺害されてしまうのです。
僅かな期間に妻の兄、長男、孫2人を失った長家の胸中について語る史料はなにもありません。しかし戦国の世の非情と、権力者の身勝手さを思い知るだけだったのではないでしょうか?長家のその後については、あまり伝わらず三河一向一揆で家康に追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力した事が伝わるだけです。
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於大との間に生まれた息子の家は維新まで繁栄
於大の方が産んだ長家との間の子である久松康元、久松勝俊、久松定勝の3人は松平姓を与えられ、家康の異父弟という家柄から徳川の藩屏として大事にされ、それぞれ大名になりました。
旗本として明治維新を迎えた松平康元の家系
久松松平家嫡流の康元は、家康の関東移封後、下総国関宿城に2万石を与えられ、その後4万石へ加増。子孫は美濃大垣藩5万石から信濃小諸藩5万石になった後で跡継ぎがなく改易になります。しかし後に下野那須藩1万石で家名を再興。
次に伊勢長島藩1万石へ転封となりますが2代藩主の松平忠充が酷い暗君で、次々に重臣を切腹させ、その子供まで殺した事で狂気として改易されます。しかし忠充五男、松平康郷が旗本として下総国飯笹6千石で存続し明治維新を迎えます。
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多胡藩1万石で明治を迎えた勝俊の家系
松平勝俊は、駿河久能城代になり1586年死去。その後養嗣子の勝政が8000石の旗本となり、子の勝義が下総国多古に領地を移され交代寄合となります。勝俊の家系は1713年の加増で都合1万2000石になり多古藩を興し、その後に分知によって1万石の大名として明治維新まで存続しました。
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桑名藩他、多くの大名を出した定勝の家系
末弟、松平定勝の家系は嫡男定行が伊予松山藩主15万石に封じられ親藩大名家として明治維新まで存続します。定勝三男の定綱は美濃国大垣藩6万石から伊勢国桑名藩11万石に昇進。その後、越後国高田藩に転封となった松平定賢が高田藩領の越後国柏崎の所領と共に都合11万石で陸奥白河藩に入部します。
定賢の次の2代藩主松平定邦の養子が、御三卿田安徳川家初代当主、徳川宗武の七男で寛政の改革で有名な松平定信でした。その後、久松家は4代松平定永のときに旧領の伊勢国桑名藩に転封となり明治維新を迎えました。定勝の五男にあたる定房も伊予国今治藩3万石に封ぜられ明治維新まで存続しています。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は久松長家の生涯を解説してみました。家康の義理の父という以外はパッとしない長家ですが、家康の騙し討ちを憎み、絶縁して領地に引き籠った点は人間として高潔な面があったのかもしれません。そのお陰もあってか、長家と於大の間に生まれた3人の子孫はそれぞれ大名となり、家は明治維新まで存続したのです。
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