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和田合戦の真実!和田義盛の乱、功臣も容赦なしの衝撃!

06/01/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

和田義盛 鎌倉殿の13人 武士

 

 

和田義盛わだよしもり」(わだよしもり)は武勇の士として知られ、鎌倉幕府かまくらばくふ創設の功臣の一人です。

 

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

平氏を滅ぼして幕府を設立した源頼朝みなもとのよりともが亡くなった後、北条氏ほうじょうしが権力を握り、御家人たちの権力争いが激化しました。そんな中で起こったのが「和田義盛わだよしもりの乱(和田合戦)」です。

 

ドンドン出世していく和田義盛

 

 

 

今回の記事はその「和田義盛わだよしもりの乱」についてできる限りわかりやすく解説しましょう。まずは和田義盛わだよしもりのプロフィールからです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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頼朝の挙兵に参加し、幕府創設に貢献

戦場で小鳥を拾う純粋な和田義盛

 

和田義盛わだよしもりは関東の名門「三浦氏みうらし」の一族にあたります。平氏打倒のための源頼朝みなもとのよりともの挙兵に参加し、多くの戦いに参戦、特に「源範頼みなもとののりより」と共に西国で平氏と戦いを繰り広げます。「壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい」では弓の名手として注目を集め、大いに活躍します。

 

十三人の合議制の仕組みを作った北条義時

 

 

鎌倉幕府かまくらばくふ成立後は「侍所別当さむらいどころべっとう」(軍事担当)を務めます。頼朝の死後は「13人の合議制」に名を連ねますが、御家人たちと北条氏ほうじょうしの権力争いが激しくなり、「比企能員ひきよしなか」「畠山重忠はたけやましげただ」と言った有力御家人、しかも2代将軍頼家までも排除されていきます。

 

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源頼朝

 

 

泉親衡の乱と和田義盛

北条義時の側近としても暗躍していた善児

 

 

そんな中、「泉親衡いずみちかひら」(いずみちかひら)が北条氏ほうじょうし打倒のための計画を立てます。この計画は事前に露呈し、多くの武士が捕縛され、親衡は合戦の末に逃亡します。反乱に加担したとして捕縛された武士の中には和田義盛わだよしもりの息子「義直」「義重」そして甥の「胤長」も含まれていました。

 

息子の死に戦意を喪失する和田義盛

 

 

和田義盛わだよしもりは鎌倉を留守にしていましたが慌てて戻り息子たちの助命を求め、それは受け入れられたのですが、甥の胤長は許されず、和田一族勢ぞろいの前で縄に縛られ、そのまま流刑になります。胤長の屋敷は一族である義盛が貰うことは当然と思われたのですが、北条義時ほうじょうよしときが反対し、屋敷は他の武士に与えられることになりました。これ以前にも官位を望む義盛の願いを拒絶するなど、義盛は北条氏ほうじょうしへの不満を高めていきました。

 

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北条義時

 

 

義盛、決起する

平家を挑発する目立ちたがりの和田義盛

 

鎌倉では「義盛挙兵」の噂が流れ、幕府内でも動揺が広がっていました。その噂は将軍の「源実朝みなもとのさねとも」まで伝わり、彼は義盛へ使者を走らせ、真意をただしました。義盛は「お上(実朝)には恨みはない、北条義時ほうじょうよしときの傍若無人ぶりに我慢がならんのです。」と答え、決起が事実だと伝えたのです。義盛は和田一族と親せき、そして本家筋の「三浦義村みうらよしむら」にも同意を取り付け、軍を集め始めます。

 

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和田合戦

行政事務の全般を取り仕切った大江広元

 

 

義盛の隣家から「大江広元」へ通報があり、彼は将軍御所へ駆けつけます。また、和田一族に味方すると思われた三浦義村みうらよしむら北条義時ほうじょうよしとき和田義盛わだよしもりの決起を伝え、和田一族を裏切り、御所の警備につきます。そこへ和田一族が襲来、武勇で有名な和田一族は幕府軍を最初は蹴散らしますが、増援が到着し、やむを得ず和田義盛わだよしもりらは「由比ガ浜」へ退却します。

 

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北条政子

 

 

最期の戦い

鎌倉時代の侍(武士)

 

由比ガ浜に退却した義盛たちでしたが、そこに親せきの「横山党」の軍が到着し、再び軍勢が整います。幕府軍の軍勢も到着しますが、士気が上がりません。そこで大江広元は将軍実朝の名前で「義盛打倒」の文章を出し、幕府方は勢いを増します。和田一族は鎌倉に乱入、幕府軍と市街戦を繰り広げ、奮戦しますが幕府軍はあまりにも大軍で、義盛の息子らも次々と討ち取られます。

 

声を挙げて泣き首を取られた和田義盛

 

息子の死に義盛は号泣したと言いますが、そこに幕府軍が襲い掛かり、ついに和田義盛わだよしもりは討たれてしまいます。享年67歳でした。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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