「和田義盛」(わだよしもり)は武勇の士として知られ、鎌倉幕府創設の功臣の一人です。
平氏を滅ぼして幕府を設立した源頼朝が亡くなった後、北条氏が権力を握り、御家人たちの権力争いが激化しました。そんな中で起こったのが「和田義盛の乱(和田合戦)」です。
今回の記事はその「和田義盛の乱」についてできる限りわかりやすく解説しましょう。まずは和田義盛のプロフィールからです。
頼朝の挙兵に参加し、幕府創設に貢献
和田義盛は関東の名門「三浦氏」の一族にあたります。平氏打倒のための源頼朝の挙兵に参加し、多くの戦いに参戦、特に「源範頼」と共に西国で平氏と戦いを繰り広げます。「壇ノ浦の戦い」では弓の名手として注目を集め、大いに活躍します。
鎌倉幕府成立後は「侍所別当」(軍事担当)を務めます。頼朝の死後は「13人の合議制」に名を連ねますが、御家人たちと北条氏の権力争いが激しくなり、「比企能員」「畠山重忠」と言った有力御家人、しかも2代将軍頼家までも排除されていきます。
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泉親衡の乱と和田義盛
そんな中、「泉親衡」(いずみちかひら)が北条氏打倒のための計画を立てます。この計画は事前に露呈し、多くの武士が捕縛され、親衡は合戦の末に逃亡します。反乱に加担したとして捕縛された武士の中には和田義盛の息子「義直」「義重」そして甥の「胤長」も含まれていました。
和田義盛は鎌倉を留守にしていましたが慌てて戻り息子たちの助命を求め、それは受け入れられたのですが、甥の胤長は許されず、和田一族勢ぞろいの前で縄に縛られ、そのまま流刑になります。胤長の屋敷は一族である義盛が貰うことは当然と思われたのですが、北条義時が反対し、屋敷は他の武士に与えられることになりました。これ以前にも官位を望む義盛の願いを拒絶するなど、義盛は北条氏への不満を高めていきました。
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義盛、決起する
鎌倉では「義盛挙兵」の噂が流れ、幕府内でも動揺が広がっていました。その噂は将軍の「源実朝」まで伝わり、彼は義盛へ使者を走らせ、真意をただしました。義盛は「お上(実朝)には恨みはない、北条義時の傍若無人ぶりに我慢がならんのです。」と答え、決起が事実だと伝えたのです。義盛は和田一族と親せき、そして本家筋の「三浦義村」にも同意を取り付け、軍を集め始めます。
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和田合戦
義盛の隣家から「大江広元」へ通報があり、彼は将軍御所へ駆けつけます。また、和田一族に味方すると思われた三浦義村も北条義時に和田義盛の決起を伝え、和田一族を裏切り、御所の警備につきます。そこへ和田一族が襲来、武勇で有名な和田一族は幕府軍を最初は蹴散らしますが、増援が到着し、やむを得ず和田義盛らは「由比ガ浜」へ退却します。
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最期の戦い
由比ガ浜に退却した義盛たちでしたが、そこに親せきの「横山党」の軍が到着し、再び軍勢が整います。幕府軍の軍勢も到着しますが、士気が上がりません。そこで大江広元は将軍実朝の名前で「義盛打倒」の文章を出し、幕府方は勢いを増します。和田一族は鎌倉に乱入、幕府軍と市街戦を繰り広げ、奮戦しますが幕府軍はあまりにも大軍で、義盛の息子らも次々と討ち取られます。
息子の死に義盛は号泣したと言いますが、そこに幕府軍が襲い掛かり、ついに和田義盛は討たれてしまいます。享年67歳でした。
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