大河ドラマ「どうする家康」で秀吉の死後、急速に発言力を増しているのが淀殿です。
ドラマでは、生母のお市を見殺しにした家康を憎み、織田家を簒奪した秀吉を憎みながら、織田家の血を受け継ぐ息子、秀頼を盛り立てて豊臣の天下を盤石にしようとする淀殿ですが、史実における淀殿はどんな女性だったのでしょうか?
この記事の目次
落城プリンセス・茶々
淀殿は幼名を茶々と言い永禄12年(1569年)近江国小谷に誕生します。父は浅井長政で母は織田信長の妹、於市の方でした。茶々が4歳の時、父・長政が織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城します。茶々は、母や妹らとともに藤掛永勝に救出されますが父の長政と祖父の久政は自害、兄の万福丸は信長の命で羽柴秀吉に処刑されました。淀殿は生涯に3度、落城の悲運を味わう落城プリンセスでした。
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伯父信長の岐阜城で養われる茶々
茶々は次に、尾張守山城主で信長の叔父、織田信次に預けられますが、信次は天正2年9月29日、第三次長島一向一揆鎮圧の途中に討ち死にし、茶々は伯父織田信長の居城、岐阜城に転居します。その信長も天正10年、信長が本能寺の変で明智光秀に攻められ自刃、再び、行き場がなくなる茶々ですが、母の於市が柴田勝家と再婚したので、茶々は妹達とともに越前国北の庄城に転居しました。
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北の庄城も落城
茶々の義理の父である柴田勝家は、織田家の主導権を巡り羽柴秀吉と対立。天正11年に賤ヶ岳の戦いで両者は激突します。戦いでは柴田勝家が敗れ、北の庄城に逃げ帰りますが、城は羽柴秀吉の軍勢に包囲されました。この時、於市は勝家共々自害しますが、まだ幼い茶々ら三人の娘は道づれにするのは不憫とし、交渉の末に逃がされて秀吉の保護を受けます。ここから秀吉の側室になるまで茶々の消息は一次史料から辿る事は出来ないようです。
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義父の仇である秀吉の子を産む茶々
茶々は、天正17年(1589年)秀吉の子、鶴松をを生みます。すでに子供を諦めていた秀吉は非常に喜び、茶々に山城淀城を与えます。以後、茶々は「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになりました。最初の子、鶴松は天正19年に二歳で死亡しますが、淀殿は文禄2年(1593年)には第二子である秀頼を産み、秀吉の没後は秀頼の後見人として政治に介入、大蔵卿局や饗庭局らを重用し豊臣氏の家政の実権を握りました。
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関ケ原では家康を支持した淀殿(茶々)
ドラマでは家康を憎み、石田三成をけしかけて戦わせようとしている淀殿ですが、実際には秀吉が遺言した五大老五奉行体制を支持していたようです。その証拠として慶長5年(1600年)に石田三成が大谷吉継とともに上杉景勝討伐に向かった徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った時、淀殿は家康に対し、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで上洛するように三奉行と連署して書状を送っています。この点を踏まえると淀殿には家康と秀忠、及び三奉行の合議による政権運営を支持した様子が浮かび上がるのです。
その後、三成の要請を受けて大坂城に入った輝元が西軍の総大将となり、三奉行もそれに同調しますが、淀殿は一貫して秀頼の署名による家康討伐の命令書や秀頼の出陣などは許さず、石田三成の動きを牽制しないまでも豊臣としては傍観する姿勢を維持します。この淀殿の態度は、家康に有利に働き、天下を騒がす三成を秀頼のために家康が討伐する大義名分として機能しました。
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戦後に豊臣関与せずを家康に認めさせる
関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていると述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答します。こうして敗軍の将となった毛利輝元が大坂城を退去し、家康が大坂城に入ると、淀殿は家康に対し、秀頼の父親代わりになる事を強く求め、家康はそれを了承します。また、淀殿は関ケ原の翌年から「気鬱」が激しくなり、胸痛や摂食障害、頭痛に悩んで、曲直瀬玄朔から薬を処方をされたと記録されます。更年期の症状なのか、次第に家康が豊臣家を軽んじる動きに出た事に対する憤りなのかは分かりません。
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家康との対立
関ケ原の戦いに勝利した家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として勝手に諸将や自らで分配し豊臣家は支配地を減少させました。しかし、家康はほどなく江戸に帰還したので、淀殿は秀頼の後見として家康ら五大老・五奉行の去った大坂城で主導権を握ります。しかし、こうした二重権力はすでに幕府を開いた家康には不都合なものであり、慶長10年(1605年)には、家康が高台院を通じ秀頼に対し徳川に臣下の礼を取るよう要求します。豊臣氏は蔵入地を失い60万石規模の大名に転落していましたが、淀殿は豊臣の格式を守ろうと家康に遺憾の意を表明して会見を拒絶しました。この時、家康は六男、松平忠輝を大坂に派遣して慰留に努めていますが、徳川と豊臣は早晩衝突する事が回避できない状態へ突き進みました。
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大坂の陣で最後を迎える淀殿
家康は、自分の目の黒いうちに豊臣を滅ぼす事を決意し、方広寺の鐘の銘文に言い掛かりをつけ大坂冬の陣が起こります。淀殿は勇ましくも武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励しますが、家康は淀殿を心理的に揺さぶる為に百門以上の大砲を大坂城から500メートル離れた備前島に据え付け、朝から晩まで砲撃を繰り返しました。大砲の轟音に神経を苛まれ、また、不幸にも一発の砲弾が大坂城に命中し、女中に死者が出た事で、淀殿の気力は挫けてしまい家康との講和に応じ、大坂城の内堀と外堀は講和の条件として埋められました。そして、翌慶長20年徳川軍は再び大坂城を包囲。堀を失った城はもはや防御力を持たず、豊臣軍は崩壊、淀殿も秀頼や大野治長らと共に自害します。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
史実の淀殿は家康を追い落としてまで、豊臣の天下を回復しようとは考えていなかったようです。ただ、すべての大名の頂点に豊臣があるとする大前提を崩す事は出来ず、江戸に幕府を開いてから、再三、秀頼に挨拶にくるように命じる家康に対しては恐怖心と悪感情を抱いていたようです。早い段階で家康に屈服していれば、豊臣は滅亡しなかったかも知れませんが、織田家と浅井家の血筋を引くプリンセスとして、それは出来なかったんでしょうね。
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