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長州征伐が行われたのはなぜ?長州の軍事力に幕府が完敗した理由


 

コメントできるようになりました 織田信長

Cannon(大砲)

 

長州征伐は江戸時代の末期に起こり、歴史が大政奉還、明治維新へ向かうのに決定的な役割を果たした出来事です。僅か37万石の長州藩が15万の大兵力で攻め寄せた幕府軍に奇跡的な勝利を収めた事で徳川幕府の終焉は決定的になりました。

 

kawauso編集長

 

この記事では、長州征伐がなぜ起こったのか、幕末の政情にどのような影響を与えたのかを述べ激動の幕末の時代背景や各勢力の関係性について詳しく解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長州征伐の概要

錦の御旗

 

長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)は、元治(げんじ)元年(1864年)8月と慶応2年(1866年)7月の二度にわたり徳川幕府が、京都で禁門(きんもん)の変を起こした長州藩を処断すべく、周防国(すおうのくに)長門国(ながとのくに)へ向け征討の兵を出した事件です。

 

第一次長州征伐は、長州藩が禁門の変の首謀者である三家老、四参謀(さんぼう)の首を差し出した事で戦争に至らず終結しますが、長州藩の約束不履行を原因とする第二次長州征伐は、慶応元年(1865年)5月に14代将軍徳川家茂が総大将として江戸を出陣し、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る長期の政治事件であり、幕府が長州藩を倒せず退却した事で、天下に幕府の弱体化を知らせ天皇に政権を返上する大政奉還(たいせいほうかん)の引き金になりました。長州征伐以外にも、長州出兵、幕長(ばくちょう)戦争、長州戦争等とも呼ばれます。

 

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長州討伐と長州征伐に違いはある?

オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

 

長州征伐も長州討伐(とうばつ)も意味に違いはありません。どちらも立場が上の存在が罪を犯した下位者に対して罰を下すという意味です。長州征伐においては、天皇に日本の統治を委任された徳川幕府が幕府の下の存在である長州藩を罰するために出兵しているので、長州征伐、或いは長州討伐になります。逆に下位者が上位者に対して兵を挙げる事を反乱と言います。

 

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長州征伐の背景と経緯

嫌々条約に調印する井伊直弼

 

長州征伐の背景には、安政五年(1858年)の日米修好通商条約の締結があります。元々条約の締結については、幕府が単独で決定し朝廷には事後報告という慣習が続いていました。しかし、二百年以上の制限貿易から開国して自由貿易への転換は国内の猛反対を引き起こす可能性が高く、幕府は天皇の許可を得て反対を切り抜けようとしました。しかし、時の孝明天皇は激しい攘夷論者(じょういろんしゃ)であり幕府の要求を断固拒否。困った大老井伊直弼(たいろう・いいなおすけ)は、天皇の許可を得ずに独断で条約を締結します。

 

これに対し尊皇心に厚い水戸藩士が猛反発。井伊直弼は、これらの反対勢力を徹底的に弾圧する安政の大獄(たいごく)を引き起こしました。この結果、全国の尊皇攘夷派の憎しみを買った井伊直弼は万延元年(1860年)桜田門外で水戸藩や薩摩藩の浪士に襲われ暗殺されます。時を同じくして日本全国で自由貿易の影響による物価高騰やチフスやコレラのような伝染病が流行しました。こうして幕府要人や開国論者、外国人を殺傷する過激な尊皇攘夷志士が台頭、その中で攘夷の先頭を走ったのが長州藩でした。長州藩士は京都に入り込んで幕府に不満を持つ若手公卿を味方に引き込み、幕府に対して「攘夷を実行せよ」と声高に叫ぶ事になります。

 

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一方、孝明天皇は攘夷派ではありましたが、好き放題の暗殺を繰り返す尊皇攘夷の志士に不快感を持ち、妹の和宮を14代将軍、徳川家茂に嫁がせる公武合体を推進。文久三年(1863年)には、会津藩と薩摩藩に対し、長州藩士や尊王攘夷派の公卿を京都から追放するように命じる八・一八(はちいちはち)の政変を起こします。京都を締め出された長州藩はより過激な攘夷に出て、下関で外国艦船や薩摩藩船を砲撃する事件を起こします。そして、元治元年(1864年)7月19日、長州藩の尊皇攘夷派は天皇を取り返すとして兵を率いて御所を襲撃。蛤御門(はまぐりごもん)に発砲します。長州藩の軍勢は結局、薩摩藩と会津藩、桑名藩などの防衛で撃退されますが、幕府は長州藩が御所に向けて発砲した事で長州藩を朝敵として討伐する事を願い出て、7月23日孝明天皇に許可されました。

 

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第一次長州征伐の経緯

名古屋城

 

徳川幕府は尾張藩の前々藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)を征伐総督(そうとく)に決め、尾張や越前、及び西国諸藩から35藩、総勢15万の兵力をかき集め、元治元年(1864年)8月13日に毛利父子(ふし)のいる山口へ向かいます。幕府軍は10月22日に大坂城で軍議を開き、11月11日までに長州藩への侵攻ルート、芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口の五道に到着し18日に攻撃を決定しました。幕府は、長州藩の領地を没収し、毛利父子に謹慎を命じる予定でしたが、細部は将軍が裁可するとして未定でした。

 

しかし、この時、萩口(はぎぐち)攻略を任された薩摩の西郷隆盛は、幕府とは別に使者を派遣。9月30日、長州藩の支藩である岩国藩の吉川経幹(きっかわつねまさ)と交渉を開始します。10月21日、降伏条件がまとまり、①薩摩は全力で長州を擁護する。②その代わり長州藩は暴徒を自ら処罰し、謝罪の姿勢を見せる。③最悪、三条実美ら五卿の追放や毛利藩主父子が総督府に自ら出頭する必要が出るが、父子の助命を必ず保証する。とした叩き台が出ました。その後、大坂で西郷隆盛は総督の徳川慶勝へ吉川経幹へ出した降伏条件を提示。慶勝は西郷へ脇差を与えて信認の証とし、西郷は征長軍全権を委任された参謀格へ昇進します。

 

その頃、西郷は幕府を見限っており、長州藩を存続させ幕府の牽制とするつもりでした。11月4日、岩国へ入った西郷は吉川経幹と会談。経幹は禁門の変で上京した三家老の切腹と四参謀の斬首、五卿の追放といった降伏条件を提示し、その後、長州藩に処分の実行を催促します。11月16日、広島の国泰寺で征伐軍総督による三家老の首実検が開始、幕府は抵抗せず降伏した長州に対して強硬に出て、藩主父子を縄で縛り、萩城の破壊を求めますが、西郷がそれでは長州藩は最後の1人まで戦うと説得。11月18日までには、毛利父子からの謝罪文の提出と五卿と脱藩浪士の処分、山口城破却の命令が出ます。これに対し、今度は越前や九州諸藩から処分が軽いと不満が出たので23日、西郷は九州小倉に入り諸藩を説得しました。最期まで揉めた五卿の送還は、九州諸藩が責任を持って預かるとして元治元年(1864年)12月27日に征伐軍は解散されました。

 

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幕府軍と長州藩の戦力比較

 

幕府軍と長州藩の戦力比較は第一次長州征伐時に関しては幕府軍が兵力15万であったのに対し、長州軍の兵力は不明とされています。これは、第一次長州征伐の時には、幕府と長州の間で実質的な戦闘が起きなかったからです。次に第二次長州征伐では、幕府軍が15万に対し、長州軍は4500と兵力差は30倍ありました。しかし、幕府軍は兵力については圧倒的ですが、内実は中国と九州の藩が参加した寄せ集めで、指揮系統も統一されていないので動きが鈍く、数が少なくても指揮が統一され迅速な動きが出来、しかも最新鋭の小銃を装備した長州軍に歯が立ちませんでした。

 

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第一次長州征伐の結果とその後の影響

 

 

第一次長州征伐で長州が幕府軍に抵抗しないまま降伏したのは、それ以前の禁門の変や、馬関(ばかん)戦争で兵力を消耗し尽していたからです。特に馬関戦争において長州は攘夷と称して外国商船に砲撃を繰り返した報復で、アメリカ、オランダ、イギリス、フランスの四カ国連合艦隊の砲撃を受けて下関を占領されています。そんな時に幕府軍15万が長州に迫ってきたわけですから戦う所ではなく、長州では幕府に恭順して藩の生き残りを願う保守派が勝利し、尊皇攘夷派は追放されてしまいます。

 

しかし、藩の主導権を握った保守派も決して一枚岩ではなく、また幕府に恭順するだけで将来の見通しも持っていなかったので、幕府軍が去ると藩内はたちまち分裂状態となり、帰国した倒幕派の高杉晋作の功山寺挙兵(こうざんじきょへい)により保守派は打倒され、藩政は再び尊皇攘夷派に握られました。尊皇攘夷派は馬関戦争で四カ国艦隊に大敗した事を教訓に西洋列強から最新鋭の武器を輸入、やがて幕府軍を圧倒する戦力に成長します。

 

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第二次長州征伐の開始時期と経緯

お人好しな毛利敬親

 

高杉晋作が長州藩の実権を握った事を知った幕府は、藩主毛利敬親(たかちか)と養子の定広(さだひろ)に対し江戸に出てくるよう言い渡します。しかし藩主父子を人質に取られたくない長州藩は倒幕に向けた軍制改革を進めて要求を無視しました。幕府は、長州藩を厳しく問い質そうと詰問使を広島に送り長州藩も交渉団を送って対応をしますが、これも再軍備の時間稼ぎでした。

 

呑気な幕府は長州藩の誠意ある対応を待ち続けて1年以上が経過、これ以上は待てないと老中小笠原長行(おがさわらながゆき)を広島に送り込みますが、長州藩は藩主が病気であるとして偽の家老を送り込んで時間稼ぎをします。これを知った幕府は激怒し、長州藩の石高を十万石削減し藩主父子の蟄居を命じますが、長州藩は命令を拒否、交渉団も引き揚げさせます。散々コケにされた幕府は怒り心頭、慶応二年6月朝廷からの許しを得て、第二次長州征伐に突入しました。

 

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第二次長州征伐

 

徳川幕府は第二次長州征伐において、今度こそ長州藩を取り潰すと共に、薩摩や肥後のような外様大名を長州にぶつけ外様大名の力も削いで、一つ一つ邪魔な藩を取り潰す考えでした。幕府は御三家の尾張藩主、徳川茂徳(とくがwもちなが)を総督として、薩摩藩を含む西国の諸藩に出兵命令を出します。しかし薩摩藩は長州藩が取り潰しになれば、次は自分たちが狙われると察知していて、すでに慶応二年正月には薩長同盟を締結し出兵を拒否しました。

 

大きな戦力になる薩摩が抜けた幕府軍ですが、それでも15万の大軍となり、瀬戸内海から侵攻する大島口(おおしまぐち)に2万、山陽道から侵攻する芸州口(げいしゅうぐち)に5万、関門海峡より侵攻する小倉口(こくらぐち)に5万、山陰道から侵攻する石州(せきしゅう)口に3万を配置し、4方面から一気に攻め込む作戦をたてます。これに対し長州藩は大島口に500、芸州口に2000、小倉口に1000、石州口に1000と総勢4500人で迎え撃ちます。

 

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長州藩が奪い返した大島口

 

第二次長州征伐は大島口の戦いで戦端が開かれました。大島口は瀬戸内海に面した島であり、幕府軍はここを落す事で四国から兵力を投入しやすくする狙いでした。一方で長州藩は、限られた兵力を大島口に充てるのは得策ではないとして、ここには地元出身の兵士、500人を置いて捨て石にします。幕府軍は当初、松山藩、今治藩、徳島藩、宇和島藩が参加する予定でしたが、実際に参加したのは松山藩のみでした。

 

それでも幕府軍は優勢な海軍力を活かし、大島沿岸に砲撃を加えた上で、幕府の洋式歩兵と松山藩兵が奇襲を掛けて上陸、大島は制圧されました。大島口を重要視していなかった長州藩ですが、高杉晋作と第二奇兵隊、そして浩武隊が大島の奪還を主張して出撃。夜陰に紛れて丙寅丸(へいいんまる)で砲撃しながら奇襲を掛け、沖合に停泊していた幕府艦隊と撃ち合いになりますが、激戦の末に長州藩が勝利し大島を奪還しました。

 

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一進一退の芸州口

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芸州口での戦いは長州藩と芸州藩の国境の大竹が前線となります。幕府軍は、紀州藩主徳川茂承を総督に幕府の洋式歩兵や彦根藩、紀伊藩、高田藩、与板藩で構成された3万の軍勢で広島城に集結し進軍を開始。長州藩は支藩岩国藩主、吉川経幹を総督に岩国藩兵や遊撃隊、御楯隊、干城隊1000人が防衛に当たります。開戦前夜、長州軍は密かに広島藩に侵入し、大竹の北にある鍋倉山(なべくらやま)に陣取って幕府の背後にまわり彦根藩兵に向い砲撃を開始します。

 

長州藩兵は彦根藩兵に狙いを定めると、山を駆け下りながら最新鋭のミニエー銃で一斉射撃。さらに小瀬川(おぜがわ)を渡ろうとする彦根藩兵に川岸から集中攻撃、また瀬田八幡宮(せたはちまんぐう)からは砲撃を加えました。井伊の赤備えとして恐れられた彦根藩兵ですが、近代装備には程遠く、戦国時代さながらの赤い甲冑と兜姿であり、主力兵器は槍と日本刀でした。見えない場所から狙撃された彦根藩兵は動揺して大混乱となり退却。それを知った高田藩や与板藩も何もしないで退却しました。

 

意気上がる長州藩兵を見て幕府軍は洋式歩兵を投入し、鍋倉山の長州藩兵を攻撃しますが、逆に激しい猛攻にさらされ再び退却。幕府軍は切り札の洋式訓練を施した精鋭紀州藩兵を投入し、大野四十八坂で長州軍と紀州藩兵の一進一退の攻防が続きます。不利を悟った幕府は勝海舟を派遣して宮島の大願寺で長州藩と交渉し芸州口での戦いは引き分けました。

 

 

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神風が吹いた小倉口

徳川家茂

 

小倉口の戦いは小倉藩領だった赤坂が主戦場となりました。幕府軍は老中小笠原長行を総督に、小倉藩、熊本藩、久留米藩、柳川藩など九州藩兵2万を動員。長州藩側は、この小倉口を落されると終わりになる可能性が高い事から、総司令官として高杉晋作、参謀を三好軍太郎、山県有朋で固めて1000人で迎え撃ちます。高杉晋作は当初、幕府に対し挑発するような手紙を出しますが、幕府側はこれは陽動であり、長州は小倉口に攻めて来ず守りを固めるだろうと考えて油断します。

 

高杉晋作

 

高杉晋作は幕府の油断を見て、小倉藩領へ上陸し、関門海峡(かんもんかいきょう)を渡って九州へ上陸し門司(もじ)を占領。さらに幕府が馬関に上陸すべく用意していた船の大半を焼き払いました。隙を突かれた幕府軍は、東洋最強と謳われた軍艦富士山丸を小倉に回航するよう海軍に要請し、馬関を砲撃して長州軍を窮地に陥れようとします。追い詰められた長州藩は奇策を編み出します。石炭運搬船に見せかけた3隻の小船に大砲を積み込んで、それとなく富士山丸に近付くと機関部めがけて砲撃したのです。富士山丸は慌てふためいて逃げ、馬関砲撃は失敗しました。

 

勢いづいた長州藩はさらに進撃し小倉城攻撃を開始します。しかし、小倉城を守るのは当時の最新鋭武器、アームストロング砲やミニエー銃を装備した九州最強の肥後熊本藩で長州は多くの死傷者を出します。ところが、ここで長州藩に神風が吹きました。長州征伐の最高司令官である14代将軍徳川家茂が大阪城において21歳で病死した事が伝わったのです。小倉口を守る幕府軍総督、小笠原長行は狼狽して大阪に逃げるように去り、取り残された諸藩の兵は次々に帰国。小倉藩は城に火を放って退却し、この戦いも長州藩の勝利に終わりました。

 

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大村益次郎が活躍した石州口

大村益次郎 幕末

 

石州口の戦いは、浜田藩領の益田が戦場となり、幕府軍は、先鋒部隊として津和野藩(つわのはん)と浜田藩、後続に紀州藩、福山藩、松江藩、鳥取藩等の約3万を動員し萬福寺と医光寺に布陣して長州への侵攻を図ります。この石州口を防衛したのが軍事的天才として名高い大村益次郎(おおむらますじろう)でした。益次郎は清末藩主(きよすえはんしゅ)毛利元純(もうりもとずみ)を総大将として1000人の兵力で防衛に当たります。この時、幕府の先鋒を任されていた津和野藩は、すでに長州藩と繋がっていて、意図的に長州藩兵が藩領を通過するのを黙認。

 

大村は1000人を率いて陸と海の両方から浜田領内に進撃、益田城の郊外に陣を敷きました。圧倒的な兵力差の中、大村は幕府軍の突撃を誘う為に、敵の三方を伏兵で包囲しながら一方向をガラ空きにする奇策に出ます。これを見た福山藩と浜田藩はガラ空きの一方向へ突撃。長州藩兵は包囲した三方から一斉射撃を仕掛け、福山藩と浜田藩は壊滅しました。長州軍はさらに進軍して浜田城を包囲。浜田藩は幕府からの援軍がない事を知ると和睦の使者を長州軍に送り講和会議を進めようとしますが、意思の行き違いがあったのか交渉中に浜田城からは火の手が挙がり、藩主と家臣たちが松江藩へと逃亡。長州藩は石州口で完勝しました。

 

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幕府軍の敗因

兵士 旧幕府軍敗北シーン

 

兵力で長州軍を圧倒していた幕府軍の敗因は3つあります。1つ目の敗因は幕府軍が西国諸大名の寄せ集めで統率が取れていない点が挙げられます。15万人に膨れ上がった幕府軍ですが、諸藩兵は独自の指揮権を持っていて命令系統が統一されていませんでした。第一次長州征伐では長州藩が戦う前に降伏したので統率が取れていない問題は表面化しませんでしたが、第二次長州征伐では長州藩が迎え撃ったので、指揮系統の混乱がすぐに深刻化したのです。

 

第二の敗因は装備の差がありすぎた事です。長州藩は4500名が統一した訓練を施され、装備も均一でしたが、幕府軍は彦根藩のように鎧兜と槍で武装した戦国時代そのままの部隊から肥後藩のように最新の装備を備えた部隊までバラバラで士気もマチマチでした。これでは大軍のメリットを活かす事は不可能だったのです。3つ目の敗因は幕府が15万の大軍を動員した事でした。大軍が数ヶ月活動する兵糧を幕府が市場から買い占めたので、米の値段が急激に高騰し庶民の生活を直撃したのです。怒り狂った庶民は大坂や江戸で打ちこわしや一揆を繰り返し世の中は大混乱します。このため、幕府軍は落ち着いて戦う事が出来ず、次々に諸藩が戦線から離脱し幕府の弱体化を天下に晒しました。

 

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高杉晋作の役割

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長州征伐において大きな功績を挙げた人物には長州藩の高杉晋作がいます。高杉晋作の最大の功績は、第二次長州征伐の指揮官としてではなく、第一次長州征伐に敗北して保守派に実権を握られた長州藩をクーデターによって転覆させ、再び政権を尊皇攘夷派の手に取り戻した事です。高杉晋作は元治元年(1864年)11月、保守派が政権を握ると藩の外に逃亡しますが、長州藩内部が混乱している事を見て取ると1ヶ月程で舞い戻り、奇兵隊以下の諸隊を扇動して保守派を倒そうとします。

 

しかし、当時、長州の尊皇攘夷派はほとんど意気消沈、保守派の言いなりになって長州藩兵に吸収される事を望み、高杉の演説に耳を貸しませんでした。激怒した高杉は「かくなる上は僕一人でも斬り込んで見せる、願わくば馬を一頭貸したまえ」と言い放ち12月15日深夜、功山寺で挙兵します。高杉についてきたのは伊藤博文や石川小五郎率いる遊撃隊、それに義侠心から参加した侠客を含め84名でした。しかし高杉の決死の行動は、やむなく保守派に従いながら忸怩たる思いを抱える藩士たちを揺り動かし、馬関新地の会所を無血で制圧、さらに海軍局を襲い、こちらも説得によって制圧しました。こうして長州の重要拠点を無血で抑えた事で、流れは一気にクーデター軍に有利となり、元治二年(1865年)2月までに、長州藩保守派は崩壊、長州藩の実権は高杉晋作等、尊皇攘夷派の手に握られました。

 

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西郷隆盛と薩摩藩の動向

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西郷隆盛は禁門の変直後には、朝廷に弓を引いた長州藩に対し厳しい態度で臨むつもりだったようです。しかし、長州藩を京都から排除した一橋慶喜が会津藩主、松平容保や桑名藩主松平定敬等と共に一会桑政権を確立し、長州征伐を名目に西南諸藩を長州藩にぶつけて潰し合いをさせて勢力を削ぎ、その後、強力な幕府陸海軍が有力外様大名を排除しようと考えている事を察知すると、長州藩の勢力を温存し将来的に幕府に対抗させるように仕向けるべきだと考えるようになります。

 

その為、薩摩藩は戦力温存のために萩口に駐留したまま動かず、長州藩が自暴自棄になって暴走し戦争にならないよう長州藩の支藩である岩国藩主の吉川経幹を通じ長州藩を戦わずに降伏させる道を探ります。西郷は、禁門の変の首謀者である三家老と四参謀を処分し、五卿を幕府に引き渡せば、長州藩の領土を削らず、長州藩主父子も必ず助命させると約束。長州藩は岩国藩を通じて提示された降伏条件に飛びつき長州藩は滅亡を免れました。西郷の周旋が無ければ、第一次長州征伐で長州の尊皇攘夷派は壊滅し、長州藩は獲り潰され明治維新は起きなかったかも知れず、仮に起きたとしても、現在とは全く違う展開を辿ったでしょう。

 

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坂本龍馬の関与

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坂本龍馬は薩長同盟で犬猿の仲の長州と薩摩を結び付けたとして知られていますが、薩長同盟自体は龍馬のアイデアでもなんでもなく、第一次長州征討中止運動や五卿の太宰府延寿王院への受け入れで奔走していた福岡藩の尊皇攘夷志、月形洗蔵(つきがたせんぞう)早川勇(はやかわいさみ)などが最初の発案者で、その後、イギリスの駐日公使パークスが高杉晋作と会談したり土佐藩を訪問して薩長を和睦させるように説いて広まりました。

 

勝海舟の暗殺を企んでいた坂本龍馬

 

実際には薩長同盟に関連する龍馬の行動は多くなく、密約が結ばれた際に、偶々同席し長州の木戸貫治(木戸孝允)に請われて、六ヶ条の盟約の書状に裏書きした事が必要以上に大きく評価されています。ただ武器商人でもあった龍馬は薩摩にも長州にも顔が利き知人が多いのは事実であり、第二次長州征伐開戦間もない6月16日、下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦。6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験しています。

 

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長州征伐の歴史的意義とその後

朝廷

 

 

長州征伐の歴史的な意義は、260年以上、三百近い諸藩を押さえつけていた絶対権力者であった徳川幕府が、僅か37万石に過ぎない長州藩を二度も征伐しながら屈服させる事が出来ず、自ら戦争を切り上げて逃げてしまった点にあります。幕府の弱体化を見た諸藩は、幕府の命令を公然と無視するようになり、統治能力の限界を露呈した幕府は天皇に政権を返上しないわけにはいかなくなりました。

 

また、もう少し深掘りするなら15万の大軍を率いた徳川軍が長州藩に勝てなかったのは、戦争に参加したそれぞれの藩を直接指揮して戦う事が不可能な封建制の上に成立した政権だからであり、逆に長州藩が勝利したのは、同じ長州人の兵士を長州人の指揮官がまとめて単一の命令を下す事が出来、規模は小さいものの中央集権的な軍事制度を採用できたからでした。長州征伐から10年も経過しない間に、明治政府は廃藩置県を断行し、日本から藩が消滅し県が置かれて中央集権国家に移行するのですが、その原型は長州征伐にあったのだと言えるかも知れません。

 

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まとめ

kawauso編集長

 

今回は第一次、第二次の長州征伐について詳しく解説しました。長州征伐は天皇に対し弓を引いた長州藩への幕府による処罰として開始されますが、禁門の変で活躍した薩摩藩は、長州征伐そのものが、一橋慶喜と会津藩、桑名藩が手を組んで長州だけではなく、薩摩を含む西南雄藩を取り潰す策謀だと感じて長州藩の処分を軽くするように画策しました。一度は幕府に屈服した長州藩ですが、戦争を回避した事で兵力が温存され、高杉晋作がクーデターで長州藩の実権を握ると薩摩は薩長同盟を通じて長州藩に最新鋭の武器を横流し、長州は第二次長州征伐で15万幕府軍を跳ね返す快挙を成し遂げました。逆に幕府は、全国の大名を動員しても、長州藩にすら勝てない事が天下に暴露され弱体化が進み、大政奉還を回避できなくなるのです。

 

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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