皆さんは島流しってどんな刑罰かご存知ですか?
編集長は子供の頃、大人から「島流しは罪人を筏に縛りつけ海に流す刑罰だ」と聞いて、なんて恐ろしい実質死刑じゃないかと驚いた記憶があります。ただ、これは大人が子ども相手につく嘘で実際の島流しとはだいぶ違いました。
そこで今回は、島流しが本当はどんな刑罰だったのかについて解説します。
この記事の目次
そもそもどうして島に流すのか?
島流しは明治41年まで日本に存在した刑罰です。しかし、どうして島流しという刑罰が誕生したのでしょうか?
大昔、日本では神の怒りに触れた物や人を遠くに追放するしきたりがありました。追放された人に対しては、二度と帰還する事を許さず朽ち果てるままにしたそうです。昔はコンビニもスーパーもなく、食べ物を手に入れるのも容易ではないので集団から追放され、1人になる事は大袈裟でなく命にかかわりました。
また、島流しは死刑の次に重い刑罰にされていて、殺害しては周囲の反発が大きい人物を島流しにして隔離してしまう目的もありました。このように島流しには、共同体から切り離して罪人に精神的肉体的苦痛を与える目的、そして殺してはマズい邪魔な人物を遠くに飛ばしトラブルを回避する目的があります。
それから島流しというと絶海の孤島をイメージしますが、実際は政治の中心から隔絶している地域ならば島でなくても島流しでした。
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最古の島流しは近親相姦
日本の島流し最古の事例は、5世紀前半の允恭天皇の子供である軽大娘皇女と木梨軽皇子とされています。2人は兄妹ながら愛し合いウヒョってしまい近親相姦のタブーに触れ四国の伊予国に流されてしまいました。
当時、四国は人が住んでいるものの瀬戸大橋が架かっているわけでもなく畿内と隔離された孤島だと認識されていたようです。最初に木梨軽皇子が流され、次に軽大娘皇女が兄を慕って後を追って再会、そこで自害したとも言われています。
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奈良から平安時代初期の島流し
飛鳥時代末になると日本は唐の律令制を手本に島流しを五刑の1つに組み込む事になります。島流しは罪の重さで近流、中流、遠流に分かれ、遠流が畿内から一番遠くに流される事になりました。
しかし、実際は罪状や身分、流刑地の状況により、割合簡単に流刑地は変更されたらしいです。具体的な島流しの内容を見てみると、まず受刑者は居住地から遠隔地への強制移住と1年間の徒罪(強制労働)が科せられます。また、当時妻や妾は連帯責任で島流しに強制的に付き合わされましたが、それ以外の家族は希望者のみでした。
現地につくと、現地の戸籍に編入され、1年間の強制労働の後に口分田が与えられ現地の良民として税金が課されました。この時代の島流しは強制移動つきの1年限定の強制労働であり、それが終わると帰国は出来ませんが庶民に戻る事が出来たのです。
しかし、後年になると流罪を含めたすべての罪人が赦免される「非常赦」が度々出て、帰国が許されたケースも多くあります。
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頻繁に島流しが起きる中世
平安時代も中期に入ると仏教の浸透で死刑が停止となり、最高刑は島流しとなりました。そのため、この頃から死刑が復活になる12世紀の保元の乱頃まで、朝廷での権力闘争は敗北した側の貴族や武士を島流しにする事が一般的になり血を流す政争が少なくなります。
また、保元の乱後、権力者信西により死刑は復活しますが、それが適用されるのは武士階級が多く、天皇や上級貴族については、相変わらず島流しが適用されていました。
島流しの場所としては、佐渡、隠岐、伊豆大島、四国の讃岐などがあります。
天皇や上皇のような貴人が流罪になると簡略化された御所が置かれ、最低限の家人を置く事を許されるなど、出来る限り配慮がなされましたが、それまで都で権勢を極めていた事を考えると、落差の激しさにショックをうける天皇や上皇も多かったようです。
また後醍醐天皇のように隠岐に流されてもファイトを燃やし、鎌倉幕府を呪い続けた結果、隠岐を脱出してカンバックを果たし、見事幕府を倒した運の強い天皇もいました。
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割と気楽な島流しだった頼朝
死刑がなくなり島流しが主流になったと言っても、その生活が過酷になるか平穏になるかは、島流しにあった当人の財力や、現地の実力者の対応により千差万別でした。
平穏なケースには平治の乱で敗れ伊豆に流された源頼朝がいます。伊豆は温暖で暮らしやすい土地でしたし、頼朝には比企尼という乳母を務めた女性がいて、彼女が伊豆に近い武蔵国に住み、頼朝が挙兵するまでの20年間米を仕送りしていた事が分っています。
このような援助を受け頼朝は、最初は伊豆の豪族、伊東祐親、次に祐親の義理の息子である北条時政の知遇を受け、時政の娘の政子を正室にして力を蓄えました。
さらに頼朝には非公式ですが、比企尼の縁者の安達盛長という家人までつき、時々は巻き狩りに参加して密かに弓の腕を磨いたとも伝えられます。
また、頼朝の挙兵についても、京都で平家の情報を送っていた三善康信が平家が河内源氏を根絶やしにしようとしていると勘違い情報を送ったためのヤケクソ蜂起とも言われていて、もし、それがなければ伊豆で何ごともなく生涯を閉じたかも知れません。
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限界突破サバイバーだった俊寛
逆に壮絶な島流し生活を送ったのが僧侶である俊寛でした。平家討伐の鹿ケ谷の陰謀が清盛に露見した彼は、死刑は免れたものの島流しになります。
その俊寛が流されたのが、現在の鹿児島県の硫黄島とも喜界島ともされる鬼界島という火山島。島の中央では山が噴煙を上げ硫黄の臭いが充満、住民もまばらで田畑もなく食べる物と言えば木の芽か海岸まで下り海藻や貝類を拾うくらいでした。
ここには、俊寛と藤原成経、そして平康頼の3名が流され、とぼしい木材で掘っ立て小屋を立てて暮らしていましたが、1年後に都から赦免の船が来て藤原成経と平康頼だけに許しが出て島を去っていきます。
俊寛は、ひとりだけ置いてきぼりが悲しくて悲しくて、幼児のように手足をじたばたさせ「おでもつでて行っでくで~」と泣き叫びますが、清盛ににらまれる事を恐れた2人は、かたくなに拒否。
「法師、負けないで!ほらそこにゴールは近づいてる!」と無責任な事を言いつつ都に帰っていきました。
それから1年後、俊寛の家で下働きをしていた有王という人が、大変な苦難の末、島に俊寛を訪ねます。その時、俊寛はまだ37歳というのに髪は逆立ちボサボサ、髭ボウボウで、全身がやせ衰えて骨が浮き上がり、ぼろぼろに擦り切れた衣服を着て、うつろな目でなにかをぶつぶつと呟く危ないオジサンになっていたとか…
俊寛がこのような苦境に追い込まれたのは、12歳の娘以外の一族が陰謀に加担した罪で処刑されてしまい仕送りが途絶えたからでしたが、同じ島流しでも頼朝と俊寛では天国と地獄ほど待遇が違いますね。
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室町時代の島流しがヤバすぎた
室町時代に入ると、島流しにやばい風潮が加わります。この時代は室町幕府の権力の低下もあり、自力救済の風潮が強まると共に島流しの判決を受けた罪人の人権は消滅したとして落ち武者と同レベルの扱いになったのです。
それは貴族でも武士でも同じで、このため島流しを受けた途端に、周辺から人々がよってたかって罪人の財産を剥ぎ取り、殺害してしまう事も起きていました。
島流しになっても現地に辿り着く前に落ち武者狩りに殺害されるので、島流しといっても実際は死刑判決だったのです。なかには、将軍が護衛につけた武士が島流しの罪人を襲って強盗殺人を行うケースもあり、島流しでもいいけど、現地につくまで襲われないようになんとかしてくれと将軍に懇願するケースもあったとか…
殺伐とした時代風潮は改善されず、世は応仁の乱から戦国時代に入り幕府権力に衰えが生じた事から島流しは停止され、強制力の弱い追放のような刑に変化しました。
江戸時代の島流し
戦国時代を経て江戸時代に入ると、強大な幕府権力を背景に島流しが復活します。江戸時代の島流しは、追放よりも重く死罪よりも軽い刑罰に位置付けられ遠島と呼ばれます。
遠島に該当するのは、大八車で人を轢いて殺した過失致死や、殺人に関与した者、博打うち、女性とウヒョした寺持ち僧侶などが該当しました。
流刑地としては東日本の天領の流刑者を主として伊豆七島と佐渡島に流し、西国では天草諸島や五島列島に流しています。また、少ないながら江戸幕府が町人を沖縄本島に送り込んだ例があります。
江戸時代は幕府以外にも全国に300近い藩があり、これらの藩でも一部では領内の島や山奥を流刑地にしていました。薩摩藩は支配地域に南西諸島があり、琉球も支配していた事から沖永良部や琉球に盛んに送り込んでいます。
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江戸時代の島流しの生活
江戸時代に島流しにあった流人と言っても、島流しの罪状は多様で、殺人事件に関与した人や博打うち、ウヒョ坊主まで罪の重さは様々で、それぞれ待遇が違いました。
罪が軽い流人は、律令の頃のように強制労働もなく、幕府が組織させた五人組のような村の互助組織の世話になりつつ畑仕事や漁業を手伝い、金銭を得るなどして自立した生活をしていましたし、村の娘を娶るなどして土着する流人もいたようです。
こうして見ると気候が温暖な南の島に流されれば、帰れないことさえ除けば、なかなかのアイランドのようですが、日頃から村人との関係を円滑に保っておかないと、例えば大飢饉が起きた場合、食糧をまわしてもらえず餓死する事になりました。
そういう事を考えると、南の島で誰に気を遣う事もなく気ままに暮らし、のんびり生きられるとばかりも言えず、どこに行こうと人付き合いから逃れられないという事でしょうか?
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重罪の流人の場合
比較的軽い罪の流人が、ほぼ一般人と同じ待遇なのに対し、重罪の流人には厳しい待遇が待っていました。
特に政治犯や殺人のような重罪人の場合は、自由に出歩く事は許されず座敷牢や格子付き吹きさらしの狭い小屋に放置され、冬でも冬服は与えられず火に当たる事も許されず、粗末な食事に耐え続ける厳しい扱いを受けました。
そこまで厳しくなくても、例えば藩で問題を起こし他藩に預けられて謹慎という事になると24時間監視がつき、日中は常に正座の姿勢で沈黙して座り、手紙一枚、筆一本差し入れるのも幕府の許可なしには出来ない窮屈な生活を強いられます。
この場合、生きていくのは支障ないですが誰とも交流できず、無限に近い時間をひたすら過ごすだけになり、精神的にはかなりキツイ事になります。
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明治時代の島流し北海道
明治時代に入っても、島流しはすぐに廃止されたりしませんでした。
背景には明治初期、自由民権運動が盛んで政治犯として逮捕されて各地の刑務所に送られる受刑者が多い割に刑務所の整備が進まず、常に刑務所が満員だった事がありました。
そこで明治政府は、本土の受刑者を北海道の網走監獄に送り込み、使い捨ての労働者として北海道開拓事業に従事させたのです。当時、北海道の環境は過酷で一般に労務者を募集すると、かなり賃金を割り増しにしないと募集が集まらないので、囚人を使っての北海道開拓はなかなか中止されませんでした。
しかし、次第に北海道開拓の過酷さと非人道的な囚人労働がマスメディアによって報道されるようになると、国会でも野党代議士が政府の対応を問題視。政府も規制に乗り出さざるを得なくなり、それに従い北海道に囚人を送り込むツールになっていた島流しも廃止されたのです。
こうして、島流しの歴史上、もっとも過酷な網走監獄への島流しも終わりを告げました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は島流しについて解説しました。
島流しは死刑より軽く、それ以外の罪よりは重いので様々な罪状に適用され、待遇も一般人とさほど変わらない軽いものから、サバイバルをしないと生き残れない過酷なモノまでバリエーションがありました。
また、中世には島流しにあっても赦免されてカンバックする人々も多くいたり、双六の一回休みのような機能があったのも面白いですね。
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