2024年のNHK大河ドラマは源氏物語を書いた紫式部を主人公にした「光る君へ」です。そして、ドラマの中で紫式部に影響を与えた人物として登場するのが藤原道長です。今回は、藤原氏の全盛期を築いた藤原道長について解説します。
この記事の目次
太政大臣、藤原兼家の五男として誕生
藤原道長は、966年に藤原兼家の五男として誕生します。父の兼家は意見が合わない花山天皇を策略で出家に追い込み(寛和の変)孫の一条天皇を即位させ、摂政・関白・太政大臣を歴任したやり手の権臣でした。兼家は権力を握ると、息子達の官位を次々と引き上げ道長も21歳の若さで従三位に昇進し公卿の仲間入りを果たします。同年には当時の左大臣、源雅信の娘、倫子と結婚し、着々と自分の政治基盤を確立していきます。ただし道長は五男であり、長兄の道隆、次兄の道兼がいる事から権力の座からは遠いと思われていました。
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父の兼家が死去、長兄道隆が権力を握る
正暦元年(990年)父の兼家は病を得て出家し間もなく病没。権力は長兄の道隆に引き継がれました。道隆は自分の娘である定子を一条天皇に嫁がせると共に、嫡男である藤原伊周を異例のスピードで出世させていきます。そのスピードは叔父の道長を凌ぎ、21歳で内大臣に昇進して道長を追い越しました。当時としても異例の昇進スピードは道隆が健康面に不安を抱えていて、早期に権力基盤を伊周に引き継ぎたかったからだと考えられています。
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道隆と次兄道兼が疫病で急死
長兄道隆は、息子の伊周を内大臣にした直後から糖尿病が悪化。長徳元年(995年)4月に回復しないまま死去しました。その後、権力は道隆の弟で右大臣だった道兼に引き継がれました。こうして関白になった次兄の道兼ですが、この頃、平安京では麻疹が猛威を振るっていて道兼も感染。関白就任から数日で帰らぬ人となり、七日関白とあだ名される事になりました。
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姉の手助けで伊周を追い落とし
長兄と次兄の相次ぐ死により道長は突如として権力の中枢に躍り出ます。これまでは兄達の手前、野心を前面に出す事がなかった道長でしたが、相手が甥の伊周なら話は別です。道長は伊周と藤原氏の頂点である藤氏長者の地位を巡り、激しい権力闘争を繰り広げますが、伊周は一条天皇の信任を得ていて、このままでは道長が権力を握るのは難しい状態でした。
しかし、ここで道長に強力な援軍がやってきました。一条天皇の生母であり道長の姉である東三条院です。東三条院は幼い頃から道長と仲が良く逆に道隆や伊周とは不仲でした。また道理から言えば、道隆の子の伊周よりも道隆の弟である道長が権力を継ぐ事が正当だと考えていました。東三条院は母として一条天皇の寝室に乗り込み涙を流して、道長に権力を繋ぐのが道理だと訴え続けます。この説得に一条天皇は折れてしまい、道長は伊周を差し置いて内覧の地位を得て右大臣に昇進しました。
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道隆の中関白家を追放
右大臣に昇進した道長ですが、道隆の子である伊周や弟の隆家はまだ権力を保っていましたし、伊周と一条天皇の関係も良好でした。そんな時、道長に絶好のチャンスが舞い込みます。長徳2年(996年)伊周が花山上皇と女性関係でトラブルを起こし、隆家が雇っていた武士が花山天皇の従者を襲撃、衣を矢で射抜く大事件を起こしたのです。さらに同じ頃、東三条院が病気になり、伊周が大元帥法という密教の秘術を使い、東三条院を呪っているという密告がありました。大元帥法は家臣が習得する事を禁じられた秘術で、仮に伊周が東三条院を呪詛しなくても天皇に対して不敬である事は逃れられませんでした。こうして、伊周は大宰府に隆家は出雲に左遷させる事が正式に決定し、道長は晴れて、藤原氏の権力の頂点、藤氏長者になりました。
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藤原伊周と和解
道長は伊周を下して藤氏長者となりますが、そのまま伊周を放置する事はありませんでした。大きな理由は、一条天皇に嫁いだ娘の彰子に中々男子が誕生しなかった事があります。一方で、伊周の妹の定子は出家した後で一条天皇の子、敦康親王を産んでいました。この段階で男子は敦康親王一人だったので道長は、彰子に男子が誕生しなかった場合の保険として敦康親王に期待を掛けていて、その伯父である伊周にも、ある程度の影響力を残そうとしていたのです。
寛弘2年(1005年)伊周は復権し准大臣の地位を得て、朝議にも発言権を得ました。次の天皇の伯父である伊周の影響力は拡大し、重臣たちは昼は道長に仕え、夜は伊周の屋敷に密かに集まる状態だったようです。しかし、寛弘5年(1008年)彰子が敦成親王を産んだ事で、伊周の命運は途絶えます。その後も道長は伊周を厚遇し続けますが、敦康親王が天皇になる可能性が消えた以上、伊周にとって、それはただの飼い殺しでした。寛弘7年(1010年)伊周は37歳で病死します。自分の孫が誕生した事で、伊周の中関白家を厚遇する必要が薄くなった道長ですが、冷遇しない程度には、伊周の子ども達を引き立てています。この点は道長の過剰に敵を造らない性格が影響しているようです。
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三条天皇との対立
寛弘8年(1011年)一条天皇は重病に倒れ、死の3日前に急遽東宮の居貞親王に譲位。居貞親王は三条天皇となります。三条天皇は冷泉上皇の子で円融天皇の異母兄弟にあたり、一条天皇は従甥でしたが、母の藤原超子の父が藤原兼家だったので一条天皇の東宮に立てられていたのです。ただ、即位した時、三条天皇はすでに37歳であり祖父の兼家もとっくに死去していたので藤原の家系とはいえ、道長とは疎遠でした。おまけに道長が三条天皇に嫁がせた妍子との間には男子が誕生しなかったので、道長と天皇の不仲は決定的になります。
すでに三条天皇には、大納言藤原済時の娘藤原娍子との間に敦明親王が誕生していて、道長は気が気でない状態でした。しかし、長和3年(1014年)三条天皇は仙丹を服用後に突如失明する不幸に見舞われます。すかさず道長は眼病を理由に天皇に譲位を迫りました。道長の行動はあからさまに怪しいですが、三条天皇は譲位を拒みます。するとその年と翌年に内裏が相次いで焼失、立て続けの不幸に体調悪化も加わり、気力が衰えた天皇は、敦明親王を次の天皇の東宮(皇太子)にする事を条件に三条上皇となります。
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孫の後一条天皇を即位させる
三条天皇の譲位を受けて道長は、彰子が産んだ敦成親王を後一条天皇として即位させました。敦明親王は約束通り、後一条天皇の東宮となりますが、道長とは縁もゆかりもなく、このまま東宮であり続ければ、どんな災難が降りかかるか分からないと考え東宮を辞退。道長は気を使い敦明親王を准太上天皇とし娘の寛子を嫁がせています。新しい東宮には彰子が産んだもう1人の親王である敦良親王(後の後朱雀天皇)が立てられました。
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藤氏長者と摂政を頼通に譲る
寛仁元年(1017年)道長は摂政と藤氏長者を嫡男の頼通に譲り後継体制を固めます。翌年、後一条天皇が11歳になると、道長は三女の威子を女御として入内させ10月には中宮とします。一つの家で3人の皇后が出るのは未曽有の事で、道長はその事を記念して宴を開き、有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」という和歌を詠んでいます。自信満々な道長ですが、この頃から糖尿病が悪化し、健康面に不安が出始めていました。
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62歳で死去
寛仁3年(1019年)3月、道長は糖尿病が悪化した合併症を患い剃髪して出家します。道長は極楽往生を願い、晩年は法成寺の創建に心血を注ぎこみました。日本一の権力者となった道長の命令により、法成寺造営には莫大な資材と労力が投入され、諸国の受領は朝廷への納入を後回しにして権門の道長のために争ってこの造営事業に奉仕しました。道長は完成後に法成寺に住んでいますが、50歳を過ぎたあたりから持病の糖尿病が悪化し、目も見えなくなり、心臓病を患うなど病気がちであり、また、次々と息子や娘たちを失うなど、家庭的な不幸が続きます。死の数日前には糖尿病による免疫力の低下で、背中に腫瘍が出来て苦しみ、万寿4年(1028年)に62歳で大往生しました。
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独善的な部分も多い道長
藤原道長は、仲間をとても大事にしましたが、それが行き過ぎて事件を起こす事もありました。ある時、道長は、仲が良かった甘南備永資という貴族を式部省の採用試験に合格させようと考えます。しかし、永資の学力は低く、そのままでは試験に受かりそうにありません。そこで道長は、式部省の試験官だった式部少輔橘淑信を拉致し自分の屋敷に監禁。試験結果を改竄するように迫ったのです。もちろん、往来で人間を拉致してタダで済むわけはなく、たちまちのうちに道長の所業は都に知れ渡り拉致は失敗、道長も父の道兼に厳しく叱られています。友人のためなら、法を捻じ曲げ、犯罪行為も辞さないという道長の極端な一面が出ている事件でした。
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紫式部との関係
紫式部と道長の関係については詳しい事は不明です。ただ、自らも文学を愛好した道長は紫式部や和泉式部などの女流文学者のパトロンとなり、内裏での作文会に出席し自分の屋敷でも作文会や歌合を催していたそうです。そんな道長なので源氏物語の作者である紫式部の情報も耳に入る機会があり、娘の彰子が一条天皇の中宮になるに当たって、学識豊かな紫式部をヘッドハンティングしたとも考えられます。また、道長自身が「源氏物語」の読者で、当時は貴重だった紙と墨を差し入れたり、黙って源氏物語の草稿を持ち出してしまったり、原稿の続きの催促をしていたともいわれています。道長と紫式部が交わした和歌も残っていて、道長は紫式部の歌に対し上から目線なのですが、その分、遠慮のない距離の近さも感じられ、道長と紫式部は恋人同士だったと伝える伝説も残っています。
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日本史ライターkawausoの独り言
藤原道長は最初、藤原兼家の五男だった事から、そこまで権力に執着する気はなかったと考えられますが、長兄と次兄が相次いで病死し、甥の伊周と藤氏長者を争うようになってからは熾烈な闘争を繰り広げました。しかし権力闘争に励む一方で、藤原氏全体の事を考える度量もあり、伊周や次兄道兼の子ども達にも注意を払い、脅威にならない程度には出世をさせています。この節操のない八方美人な態度が、道長の政敵を減らし、30年もの長期政権を実現させた秘訣なのかも知れません。
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