NHK大河ドラマ「光る君へ」において吉田羊さんが演じているのが藤原詮子です。後に史上最初の女院となり皇太后と同様の権力を振るう詮子ですが、円融天皇の妃である頃は不遇で、男子を産みながら皇后になれない屈辱を味わいました。
この記事の目次
藤原詮子とは?
藤原詮子は、平安中期の貴族、藤原兼家の次女で円融天皇の妃です。天元元年(978年)16歳の時に円融天皇に入内し天元三年(980年)に後の一条天皇となる懐仁親王を産みました。円融天皇の息子は、懐仁親王のみであり、本来なら詮子が妃から皇后に昇格するハズでしたが、藤原兼家の勢力拡大を嫌う円融天皇は、詮子を差し置いて関白藤原頼忠の娘、遵子を皇后にします。
この円融天皇の措置に対し兼家も詮子も激しく憤り、政務を拒否して、東三条邸に籠りました。結果的に皇后遵子に男子が生まれず、円融天皇はやむなく懐仁親王を次の花山天皇の皇太子として譲位します。985年、寛和の変で花山天皇が出家に追い込まれて一条天皇が7歳で即位すると生母である詮子の発言力は急激に上昇、円融上皇の死後は、史上初の女院号を受け、事実上の皇太后の立場で国政に介入します。
詮子は、父兼家の後を継いで権力を握った兄の道隆や甥の伊周を嫌い、逆に四歳年下の道長を息子のように可愛がっていたとされ、これが道長が権力を握るのに決定的な役割を果たします。政治的な暗躍の一方で、自身が宮廷で苦労した経験からか、弱者には優しく安和の変で没落した源高明の娘の明子を養育して道長と結婚させたり、自身が追い落とした中宮定子の娘、媄子内親王を養育しています。
こちらもCHECK
-
藤原兼家とはどんな人?道長の父が兄と繰り広げた壮絶な権力争い
続きを見る
幼少期と家系背景
藤原詮子の幼少期はハッキリしていませんが、詮子の出身母体である藤原摂関家は、代々娘を天皇に入内させ男子が誕生する事で、外戚として権力を握ってきた家柄なので詮子も将来的に天皇の妃になる前提で育てられたと考えられます。姉である藤原超子も冷泉天皇に嫁いで三条天皇の生母となっています。詮子も16歳で円融天皇に入内し、後の一条天皇を産み、藤原摂関家の繁栄に大きく貢献しました。
こちらもCHECK
-
一条天皇とはどんな人?道長と連携した天皇
続きを見る
円融天皇に入内しなければ名前は無かった?
平安時代中期、貴族の女性の名前にはあまり関心が払われず、幼少期は生まれた順番に、一宮、二宮に、三宮と呼ばれ、個別の名前はなかったようです。
では、どうして名前が伝わる女性とそうではない女性がいるのかと言えば、女性が女房として宮廷に仕える時には、個人識別の為に名前が必要になったためであり、そこで改めて縁起がよい漢字一文字と子をくっつけた名前が与えられました。これは天皇に貴族の娘が入内する場合も同じで藤原詮子も円融天皇に入内せず、別の貴族の婿を取っていたら、○○の妻や○○の母と呼ばれるだけで、名前は残らなかったでしょう。
こちらもCHECK
-
平安時代の貴族社会はマタハラ地獄、[毎年の妊娠を経験した女性も]
続きを見る
藤原詮子の夫、円融天皇
藤原詮子の夫は第64代円融天皇です。円融天皇は村上天皇の第三皇子でしたが、兄である冷泉天皇の即位後、次の天皇の地位を巡り、弟の為平親王を推す源高明と円融天皇を推す藤原摂関家の争いが起こり、その中で円融天皇の即位が決定しました。
摂関家の意向で即位できた円融天皇は成長すると強すぎる摂関家の権力を警戒するようになり、摂関家で権力を握った右大臣藤原兼家の娘である詮子が男子を産んだにも関わらず、兼家の権力を制限する為に、関白藤原頼忠の娘の遵子を皇后にするなどしています。このような仕打ちを受けた事から詮子の結婚生活は寂しく辛いものになり、生きていながら死んだ人のような仕打ちを受けるのは辛いと詮子が我が身を嘆いた和歌も残されています。
こちらもCHECK
-
平安貴族の死因は現代人にも当てはまる[NHK大河光る君へ予備知識]
続きを見る
藤原詮子の父 藤原兼家とは
藤原詮子の父である藤原兼家には、2人の娘がいて詮子は次女にあたります。長女の超子は冷泉天皇に入内して、三条天皇の生母となりました。次女の詮子は円融天皇に入内して皇后にはなれませんでしたが、一条天皇の生母となり、そのお陰で兼家は一条天皇の即位後に摂政、さらに関白の地位に昇進しています。大河ドラマでは悪辣な兼家の政治工作の犠牲になった詮子ですが、円融天皇が詮子ではなく藤原頼忠の娘遵子を皇后にした時には抗議して父の屋敷である東三条邸に籠っているので、父娘仲は悪くなかったのではないかと考えられます。
こちらもCHECK
-
三条天皇の生涯とは?彼の功績や家族や子孫についても紹介!
続きを見る
兄弟姉妹との関係
藤原詮子には、母を同じくする兄弟として藤原道隆、藤原道兼、藤原道長がいます。しかし、詮子は道隆や道兼とは折り合いが悪く、逆に弟の道長とは仲が良かったようです。その事もあり、父、兼家の死後、権力を握った道隆やその後継者である伊周を嫌っていて、一条天皇の生母としての特権を活かして、権力が伊周ではなく弟の道長に引き継がれるように絶えず政治工作を続けていました。
こちらもCHECK
-
藤原道兼の胸糞セリフは真実だった!上級国民だった平安貴族[光る君へ]
続きを見る
藤原詮子の性格と人物像
藤原詮子は、円融天皇に入内し、唯一の男子を儲けながら藤原摂関家の出身である事で天皇に警戒され皇后になれないという屈辱を受けました。その反動から特に息子である一条天皇の即位後は、女院として絶大な権力を振るい、藤原摂関家の権力を守り、弟である道長に権力が委譲できるように動いてきた経緯があります。自身が政治的に翻弄された事で、自分を守るためには政敵に対して容赦がない印象です。一方で不遇な結婚生活を経験した事から弱者に対して憐みの気持ちもあり、安和の変で没落した源高明の娘の明子を経済的に支援したり、兄、道隆の娘であり姪であった定子が死ぬと残された次女を引き取って養育したりしています。
こちらもCHECK
-
藤原定子の生涯とは?一条天皇に愛されるも一家の没落とともに世を去った悲劇とは
続きを見る
藤原詮子の家系図
藤原詮子の子は一条天皇一人です。しかし、一条天皇には詮子の弟である藤原道長の娘である彰子が入内し、後一条天皇と後朱雀天皇を産んでいます。後一条天皇の系統は途絶えますが、後朱雀天皇の皇子が後三条天皇となり、現在の皇室へ血が繋がっています。
こちらもCHECK
-
源倫子の家系図を読み解く!源倫子の性格と長生きの秘訣
続きを見る
藤原詮子と呪詛の関係
藤原詮子は、兄である道隆と道兼の死後、対立を深めていた弟の道長と道隆の嫡男の間で、何とか道長に権力が委譲されるように尽力しました。その甲斐あって内覧には道長が選ばれますが、伊周は内大臣と朝廷のナンバー3の地位に留まり、まだ巻き返しが期待できる状況でした。
そんな折、長徳2年(996年)の正月、伊周の弟の隆家が女性関係を原因として花山法皇に矢を射かける長徳の変が発生します。同年二月、詮子が病に倒れますが、しばらくすると詮子の住居である東三条院の寝殿の床下から呪いの人形が掘り出されたとする噂が広まります。さらに四月には藤原伊周が天皇以外には許されない大元帥法を行っていると法琳寺からの密告がありました。これらの罪状が揃った事で、藤原道長は一条天皇に対し藤原伊周と隆家を処罰するように上奏します。
一条天皇は伊周や隆家とは兄弟のように育った仲であり、処分を渋りますが、さすがに法皇への不敬、生母への不敬、天皇への不敬が重なっては不問に付す事は出来ず、伊周と隆家の左遷が決定します。このようにして、道隆から続く中関白家の没落が決定的になりました。このあまりのタイミングの良さを考えると呪詛は詮子が道長と結託しておこなった自作自演の可能性もあります。
こちらもCHECK
-
源明子はどんな人?息子が藤原摂関家にトドメを刺す[数奇な運命]
続きを見る
母としての一面
夫である円融天皇に愛されなかった分、詮子は息子である一条天皇に愛情を注いだようです。一条天皇はとても親孝行であった事が知られ、生母の詮子が兄の道兼没後の内覧の地位を道長に与えるよう天皇に直訴した時には、本当は内覧を道長の甥の伊周に与えようとしていたにも関わらず、逆らえずに押し切られたと言われています。
また、詮子は、息子である一条天皇の中宮が嫌っていた兄、道隆の娘の定子であった事にも我慢が出来ず、弟の道長に対し娘の彰子を一条天皇に入内させるように指示しています。しかし、一条天皇と定子はとても仲が良かったので、詮子の行動は天皇を苦しめる事にも繋がりました。
こちらもCHECK
-
藤原彰子はどんな人?摂関政治を支えた2人の[天皇の母87年の生涯]
続きを見る
藤原詮子の名前とその由来
藤原詮子の名前である詮には、明らかにする、調べる、備わる、選ぶ、結局という意味が込められています。平安時代中期の女性の名前は、最後に子をつけて、その前に縁起のよい漢字一文字をつける事が多かったようです。詮の字にも明らかにして備わり、選ぶ、という縁起のよい意味があるので、吉字として名付けられたのでしょう。
こちらもCHECK
-
苗字から分かる!あなたの先祖の身分や職業についてじっくりと解説!
続きを見る
大鏡での道長との身の上話
藤原詮子は史上初の女院であり、権謀術数が多い印象ですが、本人は策謀が多いとは思っておらず、ただ無我夢中で自分を守り、弟の道長の運を信じていただけかも知れない節があります。
鎌倉時代の歴史物語、大鏡では、晩年の詮子が道長と過去を振り返る場面があり、そこでは詮子が道長を前に「道隆、道兼の兄上が相次いで亡くなり、道長が権力を継承した頃は、毎日落ち着かず、私が生まれてより、こんなに世が乱れた事は無かったと感じ、道長もいつまで持つものかと思っていたが、思いがけず道長が10年以上も権力を維持したのを見ると、兄達とは違い、道長には特別の運があったのだねえ」と言っています。
これが全て真実とは言えませんが、権力の中枢にあり、やり手の政治家に見える詮子も余裕をもって国政を動かしていたのではなく、いつ滅亡がやってくるか不安な中で生きていた事が窺えますね。
こちらもCHECK
-
今昔物語とは?平安・鎌倉の人々のリアルな生と願望の記録
続きを見る
晩年と最期の瞬間
詮子は、長保3年(1002年)41歳の時、院別当藤原行成の屋敷にて崩御し、宇治木幡の藤原一族の墓所である宇治陵に葬られました。死因については、分かっていませんが老衰と呼ぶには若すぎるので病死ではないかと考えられます。また自宅ではなく院別当、藤原行成の屋敷で崩御しているので、急激に体調が悪くなり急死したとも考えられます。
こちらもCHECK
-
平安時代では何が流行っていたの?当時の流行最先端を大公開!
続きを見る
藤原詮子を取り上げた作品
藤原詮子を主人公として取り上げた作品はないようです。ただ詮子の弟である藤原道長や子である一条天皇、姪である藤原定子や藤原彰子は、それぞれ平安中期の重要人物であり、また、枕草子や栄花物語にも登場するので、その中で詮子も登場しています。
こちらもCHECK
-
清少納言のエピソードから伝わる清少納言のコンプレックス
続きを見る
大河ドラマ「光る君へ」の詮子
大河ドラマ「光る君へ」において、藤原詮子は吉田羊さんが演じています。ドラマの序盤は円融天皇に愛されたいと願いながら嫌悪され距離を置かれる不遇な役柄でしたが、息子の一条天皇が即位すると吹っ切れ、政治的な陰謀に関与するラスボスのようになり、主人公の道長を振りまわす存在感を示します。一方で円融天皇以外の男性を知らないせいか純愛に飢えていて、道長の恋愛話に乙女のように一喜一憂をするなどギャップのあるキャラクターになっています。
こちらもCHECK
-
乙丸や百舌彦はどこに住んでいたの?[NHK大河ドラマ光る君へ予備知識]
続きを見る
藤原摂関家での名づけの慣習
藤原北家摂関家では、鎌倉時代以降、男子については、歴代の摂政、関白経験者13名から2名を選んで、それぞれ一字を取って命名する慣習になったようです。こちらの13名は、 房前、内麻呂、冬嗣、良房、基経、忠平、師輔、兼家、道長、頼通、教通、師実、師通です。しかし、足利義満以後の武家の首長が摂関家の当主や嫡子に自らの偏諱を与えるようになると慣習は廃れていきました。
こちらもCHECK
-
藤原伊周の生涯とは?長徳の変で流罪となった道隆の嫡男
続きを見る
まとめ
藤原詮子の生涯はいかがでしたか?詮子の生涯は僅か41年に過ぎませんが円融天皇の皇子を産みながら愛されなかった前半生から後宮の黒幕として政敵、藤原伊周を追い落とし、弟の道長の権力を確立するなど多面的で複雑な詮子は平安中期でも魅力的なキャラクターではないでしょうか?
こちらもCHECK
-
牛車に乗れるのが貴族の証[伊周が泣きべそかいた理由]
続きを見る