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藤原詮子の生涯とは?皇子を産みながら后になれず、史上初の女院になった道長の姉

15/07/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

藤原詮子 女性 平安時代

 

NHK大河ドラマ「光る君へ」において吉田羊さんが演じているのが藤原詮子です。後に史上最初の女院となり皇太后と同様の権力を振るう詮子ですが、円融天皇の妃である頃は不遇で、男子を産みながら皇后になれない屈辱を味わいました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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藤原詮子とは?

藤原兼家 平安時代

 

藤原詮子(せんし)は、平安中期の貴族、藤原兼家(かねいえ)の次女で円融(えんゆう)天皇の妃です。天元(てんげん)元年(978年)16歳の時に円融天皇に入内し天元三年(980年)に後の一条天皇となる懐仁(やすひと)親王を産みました。円融天皇の息子は、懐仁親王のみであり、本来なら詮子が妃から皇后に昇格するハズでしたが、藤原兼家の勢力拡大を嫌う円融天皇は、詮子を差し置いて関白藤原頼忠(よりただ)の娘、遵子(じゅんし)を皇后にします。

 

この円融天皇の措置に対し兼家も詮子も激しく憤り、政務を拒否して、東三条邸(ひがしさんじょうてい)に籠りました。結果的に皇后遵子に男子が生まれず、円融天皇はやむなく懐仁親王を次の花山(かざん)天皇の皇太子として譲位(じょうい)します。985年、寛和(かんな)の変で花山天皇が出家に追い込まれて一条天皇が7歳で即位すると生母である詮子の発言力は急激に上昇、円融上皇の死後は、史上初の女院号(にょいんごう)を受け、事実上の皇太后の立場で国政に介入します。

 

詮子は、父兼家の後を継いで権力を握った兄の道隆や甥の伊周(これちか)を嫌い、逆に四歳年下の道長を息子のように可愛がっていたとされ、これが道長が権力を握るのに決定的な役割を果たします。政治的な暗躍の一方で、自身が宮廷で苦労した経験からか、弱者には優しく安和(あんな)の変で没落した源高明(みなもとのたかあきら)の娘の明子(あきこ)を養育して道長と結婚させたり、自身が追い落とした中宮定子(ちゅうぐうていし)の娘、媄子内親王(びしないしんのう)を養育しています。

 

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幼少期と家系背景

朝廷

 

 

藤原詮子の幼少期はハッキリしていませんが、詮子の出身母体である藤原摂関家(せっかんけ)は、代々娘を天皇に入内(じゅだい)させ男子が誕生する事で、外戚として権力を握ってきた家柄なので詮子も将来的に天皇の妃になる前提で育てられたと考えられます。姉である藤原超子(ちょうし)冷泉(れいぜい)天皇に嫁いで三条天皇の生母となっています。詮子も16歳で円融天皇に入内し、後の一条天皇を産み、藤原摂関家の繁栄に大きく貢献しました。

 

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円融天皇に入内しなければ名前は無かった?

円融天皇

 

 

平安時代中期、貴族の女性の名前にはあまり関心が払われず、幼少期は生まれた順番に、一宮(いちのみや)二宮に(にのみや)三宮(さんのみや)と呼ばれ、個別の名前はなかったようです。

 

では、どうして名前が伝わる女性とそうではない女性がいるのかと言えば、女性が女房として宮廷に仕える時には、個人識別の為に名前が必要になったためであり、そこで改めて縁起がよい漢字一文字と子をくっつけた名前が与えられました。これは天皇に貴族の娘が入内する場合も同じで藤原詮子も円融天皇に入内せず、別の貴族の婿を取っていたら、○○の妻や○○の母と呼ばれるだけで、名前は残らなかったでしょう。

 

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藤原詮子の夫、円融天皇

 

 

藤原詮子の夫は第64代円融天皇です。円融天皇は村上天皇の第三皇子でしたが、兄である冷泉天皇の即位後、次の天皇の地位を巡り、弟の為平親王(ためひらしんのう)を推す源高明(みなもとのたかあきら)と円融天皇を推す藤原摂関家の争いが起こり、その中で円融天皇の即位が決定しました。

 

摂関家の意向で即位できた円融天皇は成長すると強すぎる摂関家の権力を警戒するようになり、摂関家で権力を握った右大臣藤原兼家の娘である詮子が男子を産んだにも関わらず、兼家の権力を制限する為に、関白藤原頼忠の娘の遵子を皇后にするなどしています。このような仕打ちを受けた事から詮子の結婚生活は寂しく辛いものになり、生きていながら死んだ人のような仕打ちを受けるのは辛いと詮子が我が身を嘆いた和歌も残されています。

 

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藤原詮子の父 藤原兼家とは

三条天皇 平安時代

 

 

藤原詮子の父である藤原兼家には、2人の娘がいて詮子は次女にあたります。長女の超子は冷泉天皇に入内して、三条天皇の生母となりました。次女の詮子は円融天皇に入内して皇后にはなれませんでしたが、一条天皇の生母となり、そのお陰で兼家は一条天皇の即位後に摂政、さらに関白の地位に昇進しています。大河ドラマでは悪辣な兼家の政治工作の犠牲になった詮子ですが、円融天皇が詮子ではなく藤原頼忠の娘遵子を皇后にした時には抗議して父の屋敷である東三条邸に籠っているので、父娘仲は悪くなかったのではないかと考えられます。

 

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兄弟姉妹との関係

藤原道隆

 

 

藤原詮子には、母を同じくする兄弟として藤原道隆、藤原道兼、藤原道長がいます。しかし、詮子は道隆や道兼とは折り合いが悪く、逆に弟の道長とは仲が良かったようです。その事もあり、父、兼家の死後、権力を握った道隆やその後継者である伊周を嫌っていて、一条天皇の生母としての特権を活かして、権力が伊周ではなく弟の道長に引き継がれるように絶えず政治工作を続けていました。

 

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藤原詮子の性格と人物像

京都御所

 

 

藤原詮子は、円融天皇に入内し、唯一の男子を儲けながら藤原摂関家の出身である事で天皇に警戒され皇后になれないという屈辱を受けました。その反動から特に息子である一条天皇の即位後は、女院として絶大な権力を振るい、藤原摂関家の権力を守り、弟である道長に権力が委譲できるように動いてきた経緯があります。自身が政治的に翻弄された事で、自分を守るためには政敵に対して容赦がない印象です。一方で不遇な結婚生活を経験した事から弱者に対して憐みの気持ちもあり、安和の変で没落した源高明の娘の明子を経済的に支援したり、兄、道隆の娘であり姪であった定子が死ぬと残された次女を引き取って養育したりしています。

 

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藤原詮子の家系図

一条天皇 平安時代

 

 

藤原詮子の子は一条天皇一人です。しかし、一条天皇には詮子の弟である藤原道長の娘である彰子(しょうし)が入内し、後一条天皇と後朱雀(すざく)天皇を産んでいます。後一条天皇の系統は途絶えますが、後朱雀天皇の皇子が後三条天皇となり、現在の皇室へ血が繋がっています。

 

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藤原詮子と呪詛の関係

陰陽師-安倍晴明

 

 

藤原詮子は、兄である道隆と道兼の死後、対立を深めていた弟の道長と道隆の嫡男の間で、何とか道長に権力が委譲されるように尽力しました。その甲斐あって内覧には道長が選ばれますが、伊周は内大臣と朝廷のナンバー3の地位に留まり、まだ巻き返しが期待できる状況でした。

 

そんな折、長徳2年(996年)の正月、伊周の弟の隆家が女性関係を原因として花山法皇に矢を射かける長徳の変が発生します。同年二月、詮子が病に倒れますが、しばらくすると詮子の住居である東三条院の寝殿の床下から呪いの人形が掘り出されたとする噂が広まります。さらに四月には藤原伊周が天皇以外には許されない大元帥法を行っていると法琳寺からの密告がありました。これらの罪状が揃った事で、藤原道長は一条天皇に対し藤原伊周と隆家を処罰するように上奏します。

 

一条天皇は伊周や隆家とは兄弟のように育った仲であり、処分を渋りますが、さすがに法皇への不敬、生母への不敬、天皇への不敬が重なっては不問に付す事は出来ず、伊周と隆家の左遷が決定します。このようにして、道隆から続く中関白家の没落が決定的になりました。このあまりのタイミングの良さを考えると呪詛は詮子が道長と結託しておこなった自作自演の可能性もあります。

 

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母としての一面

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夫である円融天皇に愛されなかった分、詮子は息子である一条天皇に愛情を注いだようです。一条天皇はとても親孝行であった事が知られ、生母の詮子が兄の道兼没後の内覧の地位を道長に与えるよう天皇に直訴した時には、本当は内覧を道長の甥の伊周に与えようとしていたにも関わらず、逆らえずに押し切られたと言われています。

 

また、詮子は、息子である一条天皇の中宮が嫌っていた兄、道隆の娘の定子であった事にも我慢が出来ず、弟の道長に対し娘の彰子を一条天皇に入内させるように指示しています。しかし、一条天皇と定子はとても仲が良かったので、詮子の行動は天皇を苦しめる事にも繋がりました。

 

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藤原詮子の名前とその由来

オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

 

藤原詮子の名前である詮には、明らかにする、調べる、備わる、選ぶ、結局という意味が込められています。平安時代中期の女性の名前は、最後に子をつけて、その前に縁起のよい漢字一文字をつける事が多かったようです。詮の字にも明らかにして備わり、選ぶ、という縁起のよい意味があるので、吉字として名付けられたのでしょう。

 

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大鏡での道長との身の上話

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藤原詮子は史上初の女院であり、権謀術数(けんぼうじゅつすう)が多い印象ですが、本人は策謀が多いとは思っておらず、ただ無我夢中で自分を守り、弟の道長の運を信じていただけかも知れない節があります。

 

鎌倉時代の歴史物語、大鏡では、晩年の詮子が道長と過去を振り返る場面があり、そこでは詮子が道長を前に「道隆、道兼の兄上が相次いで亡くなり、道長が権力を継承した頃は、毎日落ち着かず、私が生まれてより、こんなに世が乱れた事は無かったと感じ、道長もいつまで持つものかと思っていたが、思いがけず道長が10年以上も権力を維持したのを見ると、兄達とは違い、道長には特別の運があったのだねえ」と言っています。

 

これが全て真実とは言えませんが、権力の中枢にあり、やり手の政治家に見える詮子も余裕をもって国政を動かしていたのではなく、いつ滅亡がやってくるか不安な中で生きていた事が窺えますね。

 

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晩年と最期の瞬間

古墳

 

詮子は、長保(ちょうほう)3年(1002年)41歳の時、院別当(いんのべっとう)藤原行成(ふじわらのゆきなり)の屋敷にて崩御し、宇治木幡(うじこはた)の藤原一族の墓所である宇治陵に葬られました。死因については、分かっていませんが老衰と呼ぶには若すぎるので病死ではないかと考えられます。また自宅ではなく院別当、藤原行成の屋敷で崩御しているので、急激に体調が悪くなり急死したとも考えられます。

 

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藤原詮子を取り上げた作品

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藤原詮子を主人公として取り上げた作品はないようです。ただ詮子の弟である藤原道長や子である一条天皇、姪である藤原定子や藤原彰子は、それぞれ平安中期の重要人物であり、また、枕草子や栄花物語にも登場するので、その中で詮子も登場しています。

 

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大河ドラマ「光る君へ」の詮子

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大河ドラマ「光る君へ」において、藤原詮子は吉田羊さんが演じています。ドラマの序盤は円融天皇に愛されたいと願いながら嫌悪され距離を置かれる不遇な役柄でしたが、息子の一条天皇が即位すると吹っ切れ、政治的な陰謀に関与するラスボスのようになり、主人公の道長を振りまわす存在感を示します。一方で円融天皇以外の男性を知らないせいか純愛に飢えていて、道長の恋愛話に乙女のように一喜一憂をするなどギャップのあるキャラクターになっています。

 

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藤原摂関家での名づけの慣習

藤原公任 光る君へ 平安時代

 

藤原北家摂関家では、鎌倉時代以降、男子については、歴代の摂政、関白経験者13名から2名を選んで、それぞれ一字を取って命名する慣習になったようです。こちらの13名は、 房前(ふささき)内麻呂(うちまろ)冬嗣(ふゆつぐ)良房(よしふさ)基経(もとつね)忠平(ただひら)師輔(もろすけ)、兼家、道長、頼通(よりみち)教通(のりみち)師実(もろざね)師通(もろみち)です。しかし、足利義満以後の武家の首長が摂関家の当主や嫡子に自らの偏諱(へんき)を与えるようになると慣習は廃れていきました。

 

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まとめ

kawauso編集長

 

 

藤原詮子の生涯はいかがでしたか?詮子の生涯は僅か41年に過ぎませんが円融天皇の皇子を産みながら愛されなかった前半生から後宮の黒幕として政敵、藤原伊周を追い落とし、弟の道長の権力を確立するなど多面的で複雑な詮子は平安中期でも魅力的なキャラクターではないでしょうか?

 

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