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藤原為時とはどんな人?紫式部の父の波乱の生涯

02/03/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

藤原為時 平安時代

 

 

藤原為時は、NHK大河ドラマ「光る君へ」のヒロイン、紫式部の父です。ドラマでは岸谷五朗が演じ学者としての矜持と貧しさの中で悩み、右大臣藤原兼家のスパイとして花山天皇の情報を報告するなど、根は正直で優しい人ながら家族の為に妥協せざるを得ない立場に追い込まれています。そんな藤原為時、実際はどんな人物だったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名門藤原北家の出身ではあるが…

Changan(長安)

 

 

藤原為時(ふじわらのためとき)天暦(てんりゃく)三年(949年)頃に藤原北家良門流(ふじわらほっけよしかどりゅう)の流れを汲む藤原雅正(ふじわらのまさただ)の三男として誕生します。為時は道長と同じ藤原北家ではありましたが、先祖の良門(よしかど)は当時の左大臣藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の六男として誕生するも官位が上昇する前に早死にしました。その影響で良門の子孫も官位が上がりにくく次第に主流から外れた経緯(いきさつ)があります。ただ、全くの斜陽というわけではなく、良門の次男の高藤(たかふじ)の娘が宇多天皇に嫁ぎ、次の天皇である醍醐(だいご)天皇を産んだ事で高藤は外戚となり、正三位、内大臣まで昇進しました。その影響を受け、為時の祖父の兼輔(かねすけ)までは、正三位、中納言まで昇進しています。しかし、為時の父、雅正は刑部大輔(ぎょうぶだいふ)周防守(すおうのかみ)豊前守(ぶぜんのかみ)などの受領(ずりょう)を歴任しつつも位階は従五位下(じゅごいのげ)に留まり、必然的に為時も長い間、貴族未満である従六位(じゅろくい)の地位に甘んじ下級貴族の悲哀を経験します。

 

 

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波乱万丈の経歴

花山天皇

 

 

為時は、漢学者として身を立てようと考え、紀伝道(きでんどう)菅原文時(すがわらのふみとき)に師事して文章生(もんじょうしょう)に挙げられます。その後は、蔵人所雑色(くらうどのところ・ぞうしき)(雑用係)や地方官である播磨権少掾(はりまごんのしょうじょう)を経て、円融天皇の時代である貞元(じょうげん)二年(977年)皇太子であった師貞親王(もろさだしんのう)御読書始(おどくしょはじめ)において副侍読(ふくじどく)を務めます。それまで長期、官位を得られなかった為時ですが、永観2年(984年)に師貞親王が花山天皇として即位すると式部丞六位蔵人(しきぶのじょうろくいくらんど)に任じられました。娘の紫式部の式部は、この時、為時が任じられた式部丞六位蔵人に因んでいます。しかし、花山天皇は自分の孫の懐仁(やすひと)親王を天皇にしようと画策する右大臣、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の策謀により、寛和(かんな)2年(986年)退位に追い込まれました。これにより為時も巻き添えを食い、再び無職となってしまいます。

 

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光る君へ

 

 

 

兼家の子の道長に引き立てられる

藤原道長 平安時代

 

 

花山天皇の巻き添えで職を失った為時ですが、兼家の子である藤原道長(ふじわらのみちなが)が執政になった長徳二年(996年)に従五位下・越前守(じゅごいのげ・えちぜんのかみ)叙任(じょにん)されて受領(ずりょう)として越前国に赴任します。この際には、娘である紫式部も同行させたそうです。藤原摂関家と敵対していた花山天皇の派閥である為時がどうして藤原道長に引き立てられたのかは、後々説明します。

 

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名文で越前国受領をゲット

一条天皇 平安時代

 

 

一説によると、この時、為時が任じられたのは大国である越前ではなく、小国の淡路国(あわじのくに)だったそうです。受領とは徴税役人で、農民から税を取り立てた残りを自分の取り分に出来たので、中下級貴族の憧れのポストでした。しかし、淡路島の受領では、国も小さく、実入りも期待できません。困った為時は、女房を通して一条天皇に漢詩を贈ります。漢詩には、雨にも負けず、寒さにも負けず懸命に勉強してきたのに、淡路島の受領にしかなれず、我が身の不運を嘆き血の涙を流して(えり)を濡らしています。どうか除目(じもく)を考え直していただけないでしょうか?願いを聞き届けて頂ければ、陛下に一層の忠誠を尽くします。と切々と為時の窮状が綴られていました。漢詩を読んだ一条天皇は感激して涙を流し、摂政(せっしょう)だった道長は天皇の意向を汲んで、自分の部下で越前の受領になる筈だった藤原国盛(ふじわらのくにもり)の受領就任を取り消して、為時を越前国受領にしました。哀れなのは藤原国盛で越前受領就任を取り上げられてショックを受け、寝込んだ末に病死してしまったそうです。

 

 

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本当の理由は北宋の難破船への対処

鉄甲船

 

 

藤原為時の急遽の越前守就任については、「権記(ごんき)」や「小右記(しょうゆうき)」によると前年の長徳元年(995年)9月24日に隣国の若狭に宋の商人朱仁聡(しゅじんそう)が来着する事件が起こった事が原因であるそうです。当時の朝廷には、宋の商人である朱仁聡と漢文で雑談できる才能を持つ人間が少なく、漢文学者として名高い為時をその交渉役に当てた結果が、従五位下への昇進と、越前国受領就任だったという事です。こちらの方が、漢文で我が身の不遇を天皇に直訴したという話よりも遥かに説得力がありますね。

 

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紫式部の力で正五位下、左小弁へ

紫式部(女性)

 

 

娘である紫式部は、為時の従兄弟である藤原宣孝(ふじわらののぶたか)に嫁いでいましたが、長保三年(1001年)頃に宣孝は疫病で病死します。未亡人になった紫式部は、この頃から源氏物語を書き始め、その評判を聞きつけた道長は、紫式部を自分の娘で一条天皇の中宮(ちゅうぐう)である彰子(しょうし)の女房にスカウトします。その影響もあり、寛弘6年(1009年)為時は、正五位下・左少弁(しょうごいのげ・さしょうべん)に叙任され、太政官の事務方として働き始めますが、2年後に越後守となり再び受領となり越前国へ赴任します。この時、紫式部の弟である藤原惟規(ふじわらのこれのり)も越後国に同行しますが、惟規はまもなく現地で亡くなったそうです。長和3年(1014年)6月、今度は紫式部が病死したとも言われ、為時は衝撃を受け、任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京します。

 

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没年はよく分からないが長寿した

 

その後、為時は長和5年(1016年)4月29日に三井寺(みいでら)にて出家します。そして寛仁(かんじん)2年(1018年)に摂政・藤原頼通邸(ふじわらのよりみちてい)屏風(びょうぶ)(りょう)に詩を献じた事が記録されていますが、その後の消息は不明で、長元2年(1029年)頃に死去したと考えられます。為時は当時としては長寿で、年齢は七十歳に近かったようです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso編集長

 

藤原為時は、紫式部の父で当代随一と呼ばれた漢学者でしたが、出世には恵まれず無職で10年過ごすなど困窮しました。娘の紫式部もその影響で婿が取れず、二十歳も上の藤原宣孝と結婚する事になりました。しかし藤原道長が権力を握った後は、娘が中宮彰子に仕えた事で、運も上向き、正五位下の位階を得て、ギリギリ貴族と呼べる地位まで上れました。また、日本に流れ着いた北宋の商人との筆談で、為時の漢文の才能が評価されるなど、芸は身を助くを地でいった人とも言えるでしょう。

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
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