NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、第14話「都の義仲」では、いよいよ源(木曾)義仲が倶利伽羅峠の戦いで平維盛の大軍を破り、河内源氏としては二十年ぶりに上洛を果たしました。
残念ながら倶利伽羅峠の戦いはナレーションのみで終わり、義仲が上洛の大義名分とした北陸宮も登場しませんでしたので、ほの日では北陸宮について解説します。
反平家の狼煙を挙げた以仁王の遺児
北陸宮は永万元年(1165年)の誕生とされています。父は、反平家の狼煙を挙げて討死した後白河法皇の皇子である以仁王です。
父の挙兵に参加していた北陸宮ですが、以仁王が討死した事で落飾して東国に逃れます。さらに以仁王の乳母夫である讃岐前司、藤原重秀に伴われて北陸道に向かいました。
以仁王の王子である宮には、平家の追手がかかる可能性もありましたが、治承4年9月には以仁王の令旨を手に入れた信濃の源義仲が挙兵。越後の実力者である城助職を横田河原の戦いで破り北陸道へ進出します。
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源義仲が北陸宮を擁立
義仲は上洛し平家を討ちたいと考えていたものの安徳天皇と後白河法皇を擁する平家に対して迂闊に攻め掛かると朝敵認定される恐れがありました。
そこで義仲は、以仁王の遺児である北陸宮に目をつけ、越中国宮崎の豪族、宮崎太郎長康の居館に招いて御所を築いて元服式をおこない北陸宮を奉じて平家に対抗します。
この事は極めて重要で、平家も義仲を放置できなくなり、北陸道からの食糧輸送回復の問題もあり、平維盛が率いる10万の征討軍を繰り出しました。義仲は叔父の源行家の軍勢と共に追討軍を迎え撃ち、倶利伽羅峠で夜襲をかけて殲滅します。
こうして平家は京都を守る事が不可能になり、安徳天皇と三種の神器を擁して都を落ちていき、義仲は北陸宮を大義名分として上洛します。
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義仲が北陸宮を天皇に推すが…
寿永2年(1183年)7月28日、平家を都落ちさせた義仲は上洛を果たします。しかし、玉葉によると、混乱を警戒してか上洛軍に北陸宮の姿はなく、この頃には加賀に滞在していたようです。
その頃、都では平家が安徳天皇と三種の神器を持ち去った事で天皇が不在となり、上皇である後白河法皇が新しい天皇を立てる新主践祚をおこないます。
義仲はこの時、俊堯僧正を通して北陸宮を天皇の候補として推戴しますが、法皇は働きかけを無視し卜占を根拠として、安徳天皇の異母弟、四ノ宮を後鳥羽天皇として即位させました。
この時の義仲の行為は甚だしい越権とされ法皇に義仲が見限られる要因の一つとなったそうです。北陸宮はその後、9月19日になって京都に入り、法皇の御所である法住寺に身を寄せていました。
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義仲が法皇を幽閉すると姿を晦ます
皇位継承問題で法皇に口を挟んだ義仲は、それ以外にも急激に膨張した味方の兵士の乱暴狼藉を止める事が出来ず、平家追討にも失敗するなど失点を重ね、後白河法皇に見限られます。
法皇は鎌倉の頼朝に上洛を促し平家と激戦中にそれを知った義仲は京に引き返し、考え直してもらうように懇願しますが法皇は拒絶。逆に法住寺に兵力を集めて義仲の影響下から抜けようと画策しました。
万事休止となった義仲は、寿永2年の11月19日、法住寺を襲撃して法皇軍を撃破し法皇を幽閉するクーデターを決行します。
北陸宮はそれを察知していたのか、前日には法住寺から姿を消していたようです。義仲が前もって計画を告げて難を逃れるように指示したのか、義仲を見限って禍を回避しようと法住寺を抜け出し姿を消したのか理由は不明です。
一説には、御所を築いた越中の豪族、宮崎太郎長康を頼り北陸宮に戻って様子を窺っていたとも言われています。宮崎太郎長康は倶利伽羅峠の戦いに大勝した後上洛せずに、越中国に戻ったそうで、その後、都を逃れた北陸宮を匿った可能性もあるようです。
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平家が滅んだ後、姿を現す
北陸宮の消息が明らかになるのは文治元年(1185年)11月以降のことで、すでに義仲はおろか平家も壇ノ浦で海の藻屑になった後でした。
北陸宮は義仲のライバル、頼朝に庇護されて京都に戻り、法皇に賜源姓降下を願い出ますが許されず、嵯峨野に移り住んで中御門宗家の女子を正室に迎えました。後、土御門天皇の皇女を猶子として、持っていた所領の一所を譲ったそうです。
北陸宮は前半生においては、本当に以仁王の王子であるのか疑われ続けていたようで、その事に嫌気が差したのか、晩年には世捨て人のようにひっそりと人目を避けて生活し寛喜2年(1230年)7月8日に65歳で死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、大河ドラマでも言及される事がなかった北陸宮について解説しました。地味な存在ですが、北陸宮を奉じる事なしに義仲の上洛は難しく、平家の追討軍も義仲が北陸宮を擁していなければ、武田信義や頼朝を置いて義仲を討伐するという事はしなかったかも知れません。
また、以仁王の遺児という北陸宮の立場は、以仁王の令旨を根拠に挙兵した頼朝や信義も喉から手が出るほどに欲しい存在でもありました。
そういう意味で、北陸宮は源義仲にとって必要不可欠な存在だったと言えるでしょう。
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