NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第14話は「都の義仲」です。鎌倉の頼朝が御家人との反目や奥州藤原氏との戦いで上洛できないのをよそに北陸道の源義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家の10万の大軍を撃破し都落ちした平家に代わり上洛に成功しました。
上洛した義仲ですが頼朝との対立を回避する為に嫡男の源義高を鎌倉に人質として送り込んでいた事をご存知でしょうか?今回は人質として鎌倉に入り殺害される悲劇に見舞われる源義高を解説します。
この記事の目次
優しい性格が災いし頼朝と一触即発になる義仲
そもそも、源義高はどうして信濃から鎌倉へ人質に出されたのでしょうか?
元々、源義仲は、甲斐の武田信義や鎌倉の頼朝とは別に以仁王の令旨を手に入れて平家打倒の兵を挙げていました。この三人は積極的に協力しようとはしてなかったのですが、だからと言って源氏同士で合戦になれば、折角弱体化している平家を喜ばせるだけです。
考えた義仲は、頼朝とも信義とも勢力圏が重ならない北陸道を支配して上洛の機会を窺っていました。
しかし、義仲には弱点がありました。それは自分を頼ってきた人間を追い返す事が出来ないという人間的な優しさです。この性格が災いし義仲は頼朝とトラブルを起こして逃げてきた源行家と志田義広を匿ってしまい、引き渡せと迫る頼朝の要求を拒否します。
これにより、それまで関係が保たれていた頼朝との関係が急激に緊張し一触即発の事態が発生します。
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大叔父たちの為に鎌倉に人質に入る義高
その頃、義仲は越後の実力者で平家方の城資職を破り、以仁王の遺児、北陸宮を擁立し上洛のチャンスをうかがっていました。
しかし、いざ上洛しようとしても背後から頼朝に攻められたのでは根拠地を失うので、2人の大叔父を引き渡す代わりに嫡男の義高を人質として鎌倉に差し出す事を提案します。
嫡男の義高を人質に出すならば、よもや鎌倉に攻めては来るまいと頼朝も納得し、寿永2年(1183年)4月、義高は2人の大叔父の代わりに鎌倉に人質として入る事になりました。
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大姫と仲睦まじくなる義高
義高は事実上人質でしたが、頼朝は義仲のメンツを最低限立て、長女である当時6歳の大姫の婿として義高を迎えます。義高は清水冠者と呼ばれますが、冠者とは元服して間もない若者の意味で義高はまだ11歳になったばかりでした。
幼い大姫ですが、義高とはすぐに打ち解け、仲睦まじい関係になったそうです。
こうして義高が鎌倉での生活に慣れた頃、義仲は倶利伽羅峠で平維盛率いる平家追討軍10万を撃破し、もはや都を維持できなくなった平家は三種の神器と安徳天皇を連れて福原へと落ちていきました。
義仲はチャンスに乗じて周辺の勢力を加えながら南下し寿永2年(1183年)7月、ついに河内源氏の武将として20年ぶりに京都の地を踏む事になります。頼朝にも信義にも出来なかった上洛は義仲によって達成されたのです。
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上洛から60日で討ち死にする義仲
朝日将軍の美名で上洛した義仲ですが、すぐに朝廷との間で不協和音が発生します。
第一には当時の京都は養和の大飢饉の影響から抜けられず、深刻な食糧不足が発生していて、義仲の率いる数万の軍勢を養う兵糧にも馬に与える飼葉も不足していました。
おまけに義仲の兵は倶利伽羅峠の勝馬に乗り合流した寄せ集めであり、義仲の命令をあまり聞こうとせず、略奪と乱暴狼藉を繰り返します。取り締まる義仲ですが人手は足りず、民衆の恨みの声は義仲に集中するようになります。
また、義仲は北陸宮を擁して上洛した経緯から平家に連れ去られた安徳天皇に代わる天皇として北陸宮を強く推します。しかし、天皇の即位については朝廷の権限であり、後白河法皇は義仲を常識知らずの田舎者として軽蔑し、むしろ鎌倉の頼朝にラブコールを送る有様でした。
後白河法皇は義仲に対して平家追討を命じますが、義仲が北陸から連れてきた軍勢の大半は、自分達の目的は上洛であり平家追討は約束に入っていないと協力を拒否します。おまけに義仲に救われ、独自の軍勢で上洛に参加した源行家も義仲をライバル視し、独自の行動を取り始めました。
このような状況で義仲は少ない直轄軍で孤軍奮闘しますが、水島の戦いで平家に敗北。前線で消耗戦を続ける義仲に、後白河天皇が鎌倉から頼朝の軍勢を呼び寄せている事実が告げられると、義仲は遂に法皇を幽閉し自分に味方する公家を集めてクーデター政権を樹立しました。
こうして完全に求心力を失った義仲は、頼朝が派遣した源義経、源範頼の軍勢を宇治川で迎え撃ちますが大敗、逃走の途中に粟津で討ち死にします。
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命の危機に瀕する義高
朝敵となった義仲が義経の軍勢に討たれたとする最悪の情報が鎌倉にもたらされると人質の義高の立場は一気に悪くなりました。非情な頼朝は義高を斬り捨て朝廷の心証を良くしようと画策しますが、義高を慕う大姫はなんとか義高を逃がそうと侍女を巻き込んで計画を練ります。
大姫は明け方に義高を女房姿に扮装させ、大勢の女房達に囲ませて屋敷から外に出しました。そして、蹄に綿を巻いた馬に義高を乗せて逃がしたのです。
どこまでが本当かわかりませんが、7歳の少女が考えつくような作戦ではありません。もし大姫が長生きしていれば母、北条政子以上の女傑になったかも知れませんね。
そして、義高の身代わりとして義高の髻を切って寝床から出し、側近の海野幸氏が隣に座り、さも双六を楽しんでいるかのように見せかけました。屋敷の人々は数時間、義高がいなくなった事に気づかなかったそうです。
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入間河原で藤内光澄に殺害される
しかし、いつまでもこれで隠し通せるわけもありません。遂には偽装工作がバレ、激怒した頼朝はすぐに義高を見つけて殺すように堀親家に命じました。
義高は生まれ故郷の信濃を目指したようですが、鎌倉から72kmあまりも離れた入間河原で堀親家の郎党、藤内光澄に捕まり首を切られます。鎌倉に人質として入ってより1年余り、無念の最期でした。
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義高を思い続け大姫も20歳で死去
当初、義高が殺された事は大姫に伝えない事になっていたようですが、それでもどこからか話が大姫に漏れてしまい、大姫は哀しみのあまりに水も飲めないほどに塞ぎこんで病の床についてしまいます。
北条政子は娘である大姫が病気になったのは、義高を討った御家人のせいだと憤り、頼朝に御家人の成敗を働きかけます。こうして、内藤光澄は手柄を立てたにもかかわらず、義高を殺し大姫を病に臥させたとして斬首されてしまいました。何の落ち度もない光澄はトカゲの尻尾切りで殺されたんですね。
その後も大姫は一途に義高だけを思い続けて泣き暮らし、体調がすぐれない毎日が続きます。
政子も頼朝も年頃になった大姫に、幾度も縁談話を持ち込みますが、「嫁にいくくらいなら淵に身を投げて死ぬ」と拒否されてはどうにもなりません。建久8年(1197年)頼朝は後鳥羽天皇の妃として大姫を入内させようと政治的な工作を開始しますが、大姫はそれを拒否するかのように20歳で病死しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
数え年でも13歳で死んだ源義高には、これという逸話がありません。しかし、死罪を免れなくなった義高を逃がそうと腹心の海野幸氏や大姫の侍女たちが懸命に手助けしている様子を見ると、周囲の人たちが助けてあげたくなるような人望を持つ人だったのでしょう。
人質という過酷な運命と父、義仲の最期を見れば、生き延びる事は難しそうな義高ですが、何とか生き残り大姫と一緒になり幸せになって欲しかったなと思わずにはいられません。
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