倶利伽羅峠の戦いとは?大河ではスルーされそうな戦いを丁寧に解説【鎌倉殿の13人】

10/04/2022


木曾義仲(源義仲)武士 鎌倉

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」13話「幼馴染みの絆」で登場した信濃の雄、(みなもとの)(木曾)義仲(よしなか)。従来、勇者だが乱暴者として描かれる事が多かった義仲ですが、ドラマでは思慮分別があり礼儀正しい人物として描き、人気も急上昇しています。

 

坂東武士B(モブB)

 

さて、そんな義仲が頼朝より先に上洛する契機になったのが倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いですが、この戦いはどんな戦いだったのでしょうか?

 

 

 

倶利伽羅峠の戦いはどうして起きた?

五畿七道

 

では、最初に倶利伽羅峠の戦いはどうして起きたのかを解説します。

 

 

墨俣川の戦いで勝利する平維盛

 

倶利伽羅峠の戦いは寿永(じゅえい)2年(1183年)6月2日に越中(えっちゅう)加賀(かが)の国境にある砺波山(となみやま)の倶利伽羅峠で源義仲と平維盛(たいらのこれもり)率いる平家の間で起こりました。

 

10万の大軍を率いる平維盛

 

この時、平家は10万騎の大軍を擁していたそうですが、ちょっと変だと思いませんか?

どうして京都から離れた越中と加賀の国境まで平家は10万もの大軍を繰り出したのでしょう。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

その答えは養和(ようわ)大飢饉(だいききん)による畿内の食糧不足にありました。

 

この事態を回避するために平家は西日本と関東から食糧を輸入していたのですが、西日本でも飢饉の影響で食糧が入らなくなり東海道では近江源氏や美濃源氏、それに甲斐源氏の武田信義や鎌倉の源頼朝の軍勢が畿内への食糧供給の邪魔をしていました。

 

ワイルドな戦をして平家10万軍を撃破する木曾義仲

 

こうなると残るルートは北陸道しかないのですが、源義仲が北陸を支配する平家方の城助職(じょうのすけもと)の大軍を横田河原(よこたがわら)の戦いで破り勢力を北陸方面に広げ、北陸においても食糧調達が難しくなったのです。

 

平家の総帥・平清盛

 

そこで平家は討伐軍を出して源義仲を滅ぼし、北陸道の食糧供給ルートを確保しようとしました。これが倶利伽羅峠の戦いの最大の要因です。

 

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はじめての平安時代

 

 

錦の御旗を得た源義仲

朝廷(天皇)

 

さて、北陸道に勢力を伸ばした義仲ですが、それだけでは上洛の大義名分が立ちません。現代人の感覚では、圧倒的な軍事力で都の平家を打倒すれば無条件で上洛できると考えてしまいがちですが、何のお墨付きも得ていない大軍が無断で京都に入れば、下手をすれば天皇や上皇に謀反人認定される恐れもありました。

 

平安の暴れん坊将軍 木曾義仲

 

義仲もそれを気にして迂闊(うかつ)に上洛が出来なかったのですが、そこに幸運が舞い込みます。平家の手を逃れた以仁王(もちひとおう)遺児(いじ)北陸宮(ほくろくのみや)讃岐国(さぬきのくに)前国司(ぜんこくし)である藤原重秀(ふじわらのしげひで)に伴われて、北陸道に避難し義仲の勢力下に入ったのです。

 

これで義仲は親王を奉じて平家を追討する大義名分を手にしました。

 

公家同士の会議(モブ)

 

平家もそれまでは、源義仲については頼朝や信義(のぶよし)を滅ぼした後で攻めよう程度に考えていましたが、義仲が北陸宮を擁した事で悠長に構える事が出来なくなったのです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

平家軍と義仲軍の激突

坂東武士A(モブ)

 

寿永2年の春より、平家は平維盛を総大将に10万の大軍で北陸に攻め込みます。対する義仲軍は叔父で独立軍を率いている源行家(みなもとのゆきいえ)を含めても4万騎と半分以下でした。

 

源行家 鎌倉

 

維盛は数の優位を活かして越前国の火打城(ひうちじょう)の戦いで勝利し、義仲は越中国へと退却します。しかし、5月9日の明け方、加賀国から軍を進めて般若野の地で兵を休めていた平家の先遣隊である平盛俊(たいらのもりとし)の軍が義仲の先遣隊である今井兼平(いまいのかねひら)に奇襲されて戦況不利に陥り一時退却してしまいました。

 

落ち武者

 

一旦退却した平家軍は軍を二手に分け、能登国志雄山(のとのくにしおやま)平通盛(たいらのみちもり)平知度(たいらのとものり)の3万余騎、加賀と越中の国境の砺波山に平維盛と平忠度(たいらのただのり)等7万騎が二手に分かれて陣を敷きます。

 

 

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源頼朝

 

 

平家が義仲の計略にハマる

軍議(日本史)モブa

 

この時、平家の主力が砺波山に陣を敷いたのは義仲の計略にハマったからのようです。砺波山を越えると、そこには砺波平野が広がっていて、平家軍10万騎は十分に数の優位を活かす事が可能であり、兵力において劣る義仲は、それを回避して倶利伽羅峠に平家軍を押しとどめておく必要がありました。

 

そこで義仲は、日宮林(ひのみやばやし)という所に源氏の白旗を大量に立てさせ、さも自分達が大軍であるかのように装ったのです。これは孫子の兵法の樹上開花(じゅじょうかいか)という計略で義仲が兵法に通じた名将であった事が分かります。

 

孫武(ゆるキャラ)

 

平維盛は義仲軍が思いもよらない大軍である事に驚き、倶利伽羅峠を下りる事を躊躇(ちゅうちょ)猿ヶ馬場(さるがばば)という所に陣を敷いて義仲の様子を窺う事にします。それを知った義仲は、志雄山に陣取る平通盛と平知度の3万の平家軍を牽制する為に、叔父の源行家の軍勢1万を派遣して釘付けにしました。

 

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源義経

 

 

源義仲、平家軍を地獄谷に突き落として大勝利

 

倶利伽羅峠の南には地獄谷(じごくだに)と呼ばれる深い谷が存在します。この事は北陸をホームグラウンドにしている義仲は知っていますが、アウェーである平家軍は知りません。

 

松明を付けた牛を突っ込ませた木曾義仲

 

そこで義仲は平家軍に三方から夜襲を掛けて動揺させ、唯一残る南に平家の兵を追い込んで崖に突き落として殺す事を計画します。義仲は平家軍に逃げられないように腹心の樋口兼光(ひぐちのかねみつ)に3000騎を率いさせ、戦場を大きく迂回させて平家軍本隊の背後に回り込みませて退路を断ちました。

 

巴御前 女性 鎌倉

 

そして、義仲本隊の20000騎、今井兼平の2000騎、余田次郎(よだのじろう)の3000騎、巴御前(ともえごぜん)の1000騎、根井小弥太(ねいのこやた)の2000騎が一斉に倶利伽羅峠に向かって夜襲を掛けたのです。

 

源頼朝追討の総大将として出陣する平維盛

 

義仲軍を大軍と信じこんでいる平家本隊は、まさか義仲軍が夜襲を掛けるとは考えていませんでした。突然の(とき)の声に驚いた平家軍は戦う所ではなく、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げ去りますが、南を除いてどこも義仲の軍勢が待ち構えています。

 

当然、助かりたい一心の平家の兵は断崖絶壁である地獄谷に向かって突進。崖だと気づいても後から押し寄せてくる味方によって戻る事が出来ず次々に将棋倒しの格好で地獄谷に転落し、大量の死者を出して壊滅しました。

 

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北条義時

 

 

倶利伽羅峠の戦いで義仲は歴史に名を刻む

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

7万の大軍の大半を失った維盛は命からがら都に逃げのびます。もはや平家には都を維持する軍事力はなく、三種の神器と安徳天皇(あんとくてんのう)を引き連れて福原に遷都し、さらに九州を目指して落ちていくのです。

 

木曾義仲(源義仲)に救出され、また幽閉される後白河天皇

 

一方で平家を破った義仲は北陸宮を押し立てて上洛を果たし、ライバルである頼朝や信義よりも先に後白河法皇を救出するという大手柄を挙げ、日本史にその名を刻む事になりました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は、鎌倉殿の13人では、あまり触れられないであろう倶利伽羅峠の戦いを解説しました。強いけれど粗野な人として知られる義仲ですが、孫子の兵法を用いた戦い方など、源氏の御曹司(おんぞうし)として必要な素養を持っていた事が分かります。

 

自分が警護する京都で乱暴狼藉を尽くす木曾義仲軍の兵士たち

 

このように乱暴者ではなかった義仲ですが、京都に暮した経験がなく、また兵力が寄せ集めで、何より京都は深刻な食糧不足である事などが災いし人望を失い上洛から僅か60日で謀反人として、同じ源氏の源義経に討伐される事になりました。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

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カワウソ編集長

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