鎌倉幕府の最高権力者を執権といいます。
執権は鎌倉殿を補佐する立場で北条時政より始まりますが、執権とほぼ同列の地位に連署という地位があるのをご存知でしょうか?この地位は時政の時代にも義時の時代にもなく北条泰時の時代になって登場するのですが、この初代連署が北条時房でした。
今回は大河ドラマで注目度が上昇している北条時房を紹介します。
この記事の目次
遅れてきたルーキー北条時房
北条時房は安元元年(1175年)初代執権、北条時政の3男として誕生します。三浦義連を烏帽子親として元服し、時連と名乗っていましたが、その後名前がダサいとして改名しました。
異母兄弟には、北条宗時や北条義時、北条政子、北条政範がいます。
源平合戦の頃、時房はまだ幼く合戦に参加していませんが、頼朝が死去して源頼家が将軍になると蹴鞠が上手である事を見込まれて側近となり、同じく側近となった比企能員の息子たちとも関係を深めます。
比企氏と北条氏はどちらも外戚として激しく対立していたので、時房はどちらにも残れるように画策していたとも考えられますが、単純に北条氏のスパイだったのかも知れません。
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父時政を伊豆に追放し、兄義時と共に権力を掌握
将軍頼家が重病に倒れ、北条時政と比企能員の対立が不可避となると時房は北条氏に味方して生き残ります。
その後、有力御家人、畠山重忠が時政と武蔵国支配を巡って対立し、時政に謀反人認定される畠山重忠の乱が起こります。この時、時房は兄の義時と重忠の無実を時政に訴えますが押し切られ関戸の大将軍として討伐に向かいました。
畠山重忠を討ち取った時政ですが強引な手法が御家人の反感を買い、義時は時房や政子と共謀し、時政と継室牧の方を伊豆に追放する事に成功します。
こうして、兄の義時が執権の地位に就くと時房は引き立てられ、義時が相模守、時房が武蔵守として北条氏の基盤を固めていきました。
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和田義盛を滅ぼし摂家将軍を鎌倉に迎える
建暦3年(1213年)侍所別当として幕府最大の軍事力を保有していた和田義盛を北条義時は挑発し謀反に追い込みました。
時房は北条氏の軍勢を率いて若宮大路で和田義盛軍を相手に奮戦、戦後、上総国飯富の荘園を褒美に与えられます。
建保7年(1219年)源実朝が暗殺されると、時房は上京して朝廷と交渉、摂家将軍となる藤原三寅を連れて鎌倉へ帰還しました。
承久の乱では、時房は義時の庶長子、泰時と共に東海道を進軍して上洛。
後鳥羽上皇の軍勢を破ると、そのまま泰時と京都に滞在して戦後処理を続け、初代※六波羅探題に就任します。
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伊賀氏の乱で泰時に呼び戻され初代連署へ就任
元仁元年(1224年)に兄義時が急死します。この時、義時の正室は伊賀の方であり、すでに嫡男の北条政村が20歳に達し、3代執権へ就任させる準備を開始しました。
当時、正室の権力は強く3代執権は政村にすんなり決まりそうでしたが、伊賀の方に権力が移る事を恐れた北条政子が、大江広元と協議し承久の乱で手柄を立てた義時の庶長子、泰時を京都から呼び戻します。
戻ってきた泰時は、同じく承久の乱で活躍した時房も鎌倉に呼び戻し、泰時を執権、時房をナンバー2の連署に指名しました。伊賀の方は、頼みにしていた政村の烏帽子親の三浦義村が北条政子に寝返った事で軍事力の後ろ盾を失い、伊豆へ流罪になります。
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甥の泰時と対立する時房
しかし、伊賀氏の乱を鎮圧した後、今度は泰時と時房の間で主導権争いが発生。時房は泰時と不仲になり京都に帰還しますが、元仁2年(1225年)幕府の重鎮、大江広元と北条政子が相次いで死去します。
鎌倉幕府に急に権力の真空が出来た事で、時房と泰時はお互いに歩み寄る必要が生じ、時房は鎌倉に戻り泰時と共に政治を見るようになりました。以後、鎌倉幕府は北条義時の家督を継いだ泰時と北条氏一門の長老となった時房が両輪となって運営していきます。
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泰時よりも早く66歳で死去
時房は連署として泰時を補佐し、延応2年(1240年)甥の泰時よりも2年早く、66歳で死去します。時房が死ぬと泰時は、時房の嫡男の北条時盛を冷遇し、逆に時盛の弟で娘婿の朝直を優遇して、時房一門の分裂を図るなど時房の勢力削減に励む事になります。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条時房は容姿端麗で蹴鞠や和歌など文化的な素養に溢れた人物で、後鳥羽上皇の近くで仕えた事もあり、兄の義時がいなければ確実に北条氏の棟梁になった人物でした。
そんな義時が急死した時、浮上してきたのが承久の乱を共に乗り越えた8歳下の甥、泰時だったのです。
伊賀氏の乱を鎮圧した後、一度は執権の地位を目指して泰時と反目した時房ですが、大江広元、北条政子の相次ぐ急死により、泰時と協調する以外に方法がなくなり、ついに執権の地位には手が届かずに終わり、子孫は長く得宗家の家来に甘んじる事になります。
【参考文献】
ウィキペディア北条時房
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