後鳥羽天皇とはどんな人?権力を取り戻す為、鎌倉幕府に挑んだ覇道の君

09/05/2022


朝廷(天皇)

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、皆さんはドラマのラスボスをご存知ですか?

 

後鳥羽上皇

 

それはドラマオープニングの最期に登場する(しゃく)を構えた(いか)めしい後鳥羽天皇(ごとばてんのう)です。しかし承久の乱を起こして北条義時(ほうじょうのよしとき)を滅ぼそうとした後鳥羽天皇に兵は集まらず敗北。

 

隠岐(おき)に流され失意の最期を遂げ、以後、朝廷が権力を取り戻すのは112年も後となりました。今回は武士に挑んだ覇道の君、後鳥羽天皇を解説します。

 

 

 

高倉天皇の第四皇子として誕生

後白河天皇を幽閉に追い込んだ平清盛

 

後鳥羽天皇は(いみな)尊成(たかなり)と言い、治承4年(1180年)高倉天皇の第四皇子として誕生しました。高倉天皇の父は後白河法皇(ご・しらかわてんのう)です。

 

平清盛との蜜月の関係が終わった後白河天皇

 

すでにこの頃、平清盛(たいらのきよもり)と後白河法皇の関係は険悪になっていて、清盛は後白河天皇を幽閉、後鳥羽天皇の異母兄(いぼけい)で4歳の安徳天皇を即位させています。このまま平家の天下が続けば後鳥羽天皇は即位する事なく生涯を終えたでしょうが、歴史は大きく動いていました。

 

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はじめての平安時代

 

 

神器なき即位

松明を付けた牛を突っ込ませた木曾義仲.jpg

 

寿永(じゅえい)2年(1183年)木曾義仲の軍勢が倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平維盛の10万の追討軍を破り京都に迫ります。もはや京都を守る兵力もない平家は都落ちを決意し、安徳天皇と皇位継承の印である3種の神器を奉じて九州を目指して落ちていきました。

 

権力を失った後白河天皇

 

難を逃れた後白河法皇ですが、朝廷では平家を追討して力ずくで神器と天皇を奪い返すか、平和的な交渉で平家に神器と天皇の返還を求めるかで意見が割れます。ここで後白河法皇は占いの結果として平家追討を決定し、新しい天皇として高倉天皇の第四皇子、尊成親王を即位させて後鳥羽天皇としました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

平家は壇ノ浦に滅ぶが宝剣は戻らず

平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

文治元年(ぶんじがんねん)(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。

安徳天皇

 

しかし安徳天皇は道連れとなって海中に没し、三種の神器も天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)については海中に沈んで見つける事が出来ませんでした。その後も天叢雲剣の捜索は続きますが文治3年(1187年)佐伯景弘(さえきのかげひろ)の宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上断念されます。こうして後鳥羽天皇は、三種の神器が欠落した天皇という不名誉を被る事になりました。

 

京都御所

 

建久(けんきゅう)9年(1198年)1月11日、後鳥羽天皇は土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲位して上皇となり、以後、順徳(じゅんとく)仲恭(ちゅうきょう)と3代23年間院政を敷く事になります。

 

その後、承元(しょうげん)4年(1210年)の順徳天皇の践祚(せんそ)においては、いつまでも宝剣が欠けたままではよくないと伊勢神宮から後白河法皇に献上された宝剣を新しい3種の神器とする事を決定します。

 

七星剣

 

それでも後鳥羽天皇は天叢雲剣に未練があったようで建暦2年(1212年)になっても検非違使(けびいし)藤原秀能(ふじわらのひでよし)を西国に派遣し宝剣を探させています。

 

神器が欠けた状態で即位した事は、誇り高い後鳥羽天皇のコンプレックスになり、ことさらに自身の権威を見せつけようとして、強権的専制政治を志向するようになったとも言われます。

 

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源頼朝

 

 

22歳で政務を執る

木曾義が平家に敗北したチャンスを逃さない後白河法皇.jpg

 

寿永2年(1183年)に即位した後鳥羽天皇ですが、僅か3歳という事もあり政治は祖父である後白河天皇が取り仕切っていました。建久3年(1192年)3月に後白河法皇が薨去すると、今度は後鳥羽天皇の後見人、九条兼実(くじょうかねざね)が権力を握ります。

 

源頼朝を武衛と何度も連呼する上総広常.jpg

 

九条兼実は鎌倉の頼朝と親密で後白河法皇が許さなかった征夷大将軍の授与を実現させますが、次に頼朝が後鳥羽天皇の皇后に自分の娘を入内させようとした時には、すでに後鳥羽天皇に娘を入内させている兼実と不仲になりました。

 

ここで台頭してきたのが土御門通親(つちみかどみちちか)で九条兼実と頼朝の関係を断ち切り、娘を後鳥羽天皇に入内させたい頼朝に協力しました。

 

結局、頼朝の娘の相次ぐ病死で入内は失敗しますが、通親は自身の養女を後鳥羽天皇に入内させ建久7年(1196年)皇子(おうじ)を誕生させる事に成功。皇子は後土御門天皇となり、土御門通親は九条兼実の勢力を朝廷から一掃します。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

こうして次は土御門通親の天下になりそうでしたが、通親は建仁(けんにん)2年(1202年)53歳で急死します。九条兼実も同年に出家しました。通親の死去で22歳の青年に成長した後鳥羽上皇に諫言(かんげん)できる人間はいなくなり、この時から上皇の専制政治が開始されました。

 

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源義経

 

 

覇道の君の政治

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

建仁2年(1202年)はすでに鎌倉の源頼朝も死去していて、後鳥羽天皇は名実ともに治天の君となります。後鳥羽天皇は、廃れていた朝廷の行事再興や故実の整備に積極的に取り組み、朝廷の人事である徐目も上皇主導で行われました。その厳しさは「虎の尾を踏む心地である」と藤原定家(ふじわらのさだいいえ)が日記に書いています。

 

源頼家 鎌倉殿の13人

 

一方で上皇は、鎌倉幕府三代将軍、源千幡(みなもとのせんまん)が将軍になると自ら実朝の名乗りを与え、実朝を朝廷に取り込むと共に、跡継ぎが生まれない実朝に対して上皇の皇子を宮将軍として派遣する事を検討するなど鎌倉幕府と朝廷の関係は一時安定を迎えます。

 

しかし、建保7年(1219年)実朝が甥の公暁に暗殺された事で幕府と朝廷の関係は不安定になりました。

 

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北条義時

 

 

承久の乱で敗れ讃岐に流され60歳で崩御

炎上する城a(モブ)

 

承久元年(じょうきゅうがんねん)(1219年)内裏守護(だいりしゅご)源頼茂(みなもとのよりもち)在京御家人(ざいきょうごけにん)に襲われ内裏の仁寿殿(じんじゅでん)に籠って討死し、その際の火災で宜陽殿(ぎようでん)校書殿(こうしゃでん)などの内裏内の多くの施設が焼失する事件が起きます。

 

事件の原因については頼茂が将軍の地位を狙ったので討伐したと言う説や、頼茂が後鳥羽上皇の討幕の意図を知ったために、鎌倉に知らせる前に上皇が口封じしたなど諸説あります。

 

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は時の執権(しっけん)、北条義時追討の院宣(いんぜん)を出し、山田重忠(やまだのしげただ)ら有力御家人を動員させ畿内・近江の兵を招集して承久の乱を起こしました。

 

しかし、後鳥羽上皇の予想に反し東国御家人の動きは鈍く、逆に積極攻勢に出た鎌倉幕府に呼応して19万騎が合流します。大軍となった幕府軍に上皇軍は惨敗。2ヶ月後の7月9日、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。

 

常に勝ち馬を当てる北条義時

 

後鳥羽上皇に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に流罪となります。即位していた当時4歳の仲恭天皇も罪を免れず在位3ケ月で廃位され、高倉天皇の孫、茂仁王(もちひとおう)が即位しました。

 

八重姫と北条義時の息子 北条泰時.jpg

 

後鳥羽上皇は隠岐に流罪になる前に出家して法皇となりますが、幕府の警戒は厳しく乱から14年後、摂政九条道家(くじょうみちいえ)が後鳥羽法皇と順徳上皇の帰還を願い出ても北条泰時は受け入れませんでした。後鳥羽法皇は隠岐から出る事なく延応(えんおう)元年(1239年)60歳で崩御します。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

どうして承久の乱を起こした?

内容に納得がいかないkawauso様

 

そもそも後鳥羽天皇はなぜ幕府を討とうとしたのでしょうか?

 

これは陪臣(ばいしん)に過ぎない北条氏が幕府の政治を独占した事に対する不満があるようです。

 

直垂を着用する源頼朝

 

幕府を開いた源頼朝は若くして右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)に昇進し、鎌倉に幕府を開いた後も正二位(しょう・にい)の官途を得た公卿でした。その後継者である頼家も、実朝も、それぞれ正二位に昇進した公卿でしたが執権である北条義時は従四位下(じゅしいの・げ)の官途しかなく圧倒的に格下だったのです。

 

超絶楽天的な北条時政

 

後鳥羽上皇から見れば従四位下の北条氏が支配する鎌倉幕府など滅んだも同然であり、朝廷の秩序を崩壊させる下郎の政権に映ったのかも知れません。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は後鳥羽天皇を解説しました。

 

安徳天皇のリリーフとして即位し、3種の神器が欠けたまま天皇になった後鳥羽天皇は、不完全な天皇の(そし)りを払拭(ふっしょく)し強くあろうと強引な天皇専制を敷きました。

 

しかし、そのために陪臣北条氏が支配する幕府と対立する羽目になり、結果、幕府が朝廷の力を凌駕する事態を招いたのは皮肉だとしか言えませんね。

 

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カワウソ編集長

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【好きな歴史人物】
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