日本史の中でも戦国時代などに比較するとあまり人気がない鎌倉時代。その原因の33%くらいは、荘園という複雑で分かりにくい制度のせいでしょう。
なんで1つの荘園に地頭と荘園領主の2人の管理人がいるの?上下関係はどうなっているの?いくら分かりやすく解説されても分からなかった事を、今回ほのぼの日本史がすっきり理解させてあげましょう。
この記事の目次
地頭と荘園領主の違いは?
最初に答えから出しておきます。
荘園領主は荘園のオーナーで地頭は荘園領主に雇用されて入居者から年貢を徴収する管理人です。
はい、簡単ですね!これ以上シンプルには出来ませんよ!
なに、まだ分からない?では、高橋留美子の名作「めぞん一刻」に例えてみましょう。
めぞん一刻の管理人は未亡人の音無響子です。響子さんが周囲を掃除したり、家賃を徴収したりしているので地頭にあたります。そして、めぞん一刻のオーナーは響子さんの亡き夫、惣一郎の父親です。彼が未亡人になった響子さんに一刻館の管理人をさせて給料を出しています。だから荘園領主という事になります。
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地頭と荘園領主の関係は?
地頭と荘園領主の関係は、荘園のオーナーである荘園領主が地頭を任命して仕事を任せている関係です。
荘園領主は、上皇や大貴族、大寺院である事が多く、複数の荘園を日本各地に保有しているので、自分1人で管理する事が出来ません。そこで、現地にいる人を雇い地頭として年貢の徴収や治安の問題、紛争解決を任せるようになったのです。
そのため、荘園領主は地頭よりも格段にエライ事になります。
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地頭の役割は?
地頭の役割は、荘園のオーナーである荘園領主に雇われて、かわりに年貢を徴収したり、治安を守ったり、トラブルを解決する事です。
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なぜ荘園ができたのか?
荘園が出来る以前、土地は全て天皇のモノだった時代がありました。天皇はそれらの土地を人民に分け与え、人民はそれを耕して農作物を国に納め、残りを食べて生活していました。難しく言うと口分田です。
しかし、口分田には問題があり、常に平等に田畑を分け与える為に数年ごとに田畑をシャッフルしていました。これは確かに平等ですが必死に田畑を耕しても適当に耕しても、結局は国に返すので、あまり生産性は上がりませんでした。
そこで大和朝廷は、新しく開墾した土地については私有を認め売買も認めました。これに飛びついたのが大貴族や豪族や寺社でお金で人を集めて大規模に土地を開墾し、広大な私有地を手にしていきます。これが初期荘園の始まりです。
また勘違いされがちですが、初期の荘園は私有や売買が認められただけで、税金を納める義務は負っていました。これが無くなるのは不輸・不入の権のせいですが今回は触れません。
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荘園の種類は?
荘園は大きくわけて2種類で「自墾地系荘園」と「寄進地系荘園」です。自墾地系荘園とは、荘園主が自分で田畑を開墾してオーナーになったもので、初期荘園は自墾地系荘園が大半です。
一方、寄進地系荘園とは、自墾地系荘園の荘園主が自分の荘園を保護してもらう名目で藤原摂関家や東大寺、興福寺のような権力者に自分の荘園を寄進(差し出す事)したモノです。
差し出すと言っても名目だけで、荘園から上がる年貢の一部を支払う事で朝廷から税金を取られるのを免れる事が出来たのです。
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受領の横暴に対抗して寄進地系荘園が増加
現在からみると税金ぐらい支払えばいいのに荘園領主は横暴だなと思いますが、当時の徴税は国司ではなく受領という国司の下にいた(守、介、掾、目)が国司の委任を受けてやっていました。
それだけならいいのですが、受領は税金を納めた後の余分を自分の給料にしてよいという仕組みなので、少しでも自分の利益を増やそうと過酷な収奪をします。その強欲ぶりは、受領は転んだ後に土でも掴め(手ぶらでは絶対帰らない)と嫌われ、同時に恐れられました。
荘園領主は受領の強欲から逃れるために、藤原摂関家や大寺院に荘園を寄進して受領が踏み込めないようにしたのです。
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荘園整理令と領家と本家
しかし、荘園が増加すると困るのは歳入が減る朝廷であり天皇です。寄進地系荘園が増えると藤原摂関家の権勢をカサに来て、本来国の土地であった公領まで荘園だと主張して土地を奪う荘園主が登場しました。
11世紀の前半、後三条天皇は外戚に藤原氏を持たない天皇として170年ぶりに即位。減り続ける公領を守る為に、1069年に延久の荘園整理令を発布、記録荘園券契所を設置して書類に不備のある不正荘園を容赦なく没収して公領を増やし、その手は摂関家にも及ぶようになります。
こうして摂関家と言えども荘園整理令から免れなくなると大貴族や寺社は院政を敷いて天皇の上に立ち治天の君と呼ばれた上皇に荘園を寄進するようになりました。
この場合、最初に荘園主から荘園を寄進された貴族や寺社を領家、さらに領家から荘園を寄進された上皇や摂関家を本家と呼びます。
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鎌倉時代の地頭の変化
地頭は、ここまで説明した通り、荘園領主に雇われた立場が弱い存在でした。しかし、鎌倉時代に入ると地頭と荘園領主の関係に大きな変化が生じます。
鎌倉幕府を興した源頼朝が配下の御家人を地頭に任命し各地の荘園に送り込んだのです。それまでも御家人は荘官や郡司のような肩書で荘園領主に雇われていましたが、鎌倉幕府が成立した事で地頭は幕府の威光という後ろ盾を得る事になり、次第に荘園領主の権利を奪って強大化していく事になります。
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日本史ライターkawausoの独り言
中世は絶対権力者がいない複線権力の時代なので、1カ所の荘園にも複数の所有者がいて、複雑な権利関係が構築されていました。
地頭と荘園領主の並立はその典型的な例でしたが、一方でそれぞれの権利を保護する為に、契約の概念が発達していき、中世から近世への時代移行が容易になり、契約遵守が大前提である資本主義社会を受け入れる下地になったという説もあります。
まあ、それはともかく、地頭と荘園領主の違いについてお分かりいただけたでしょうか?
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