平家は実際に強かった!頼朝もパクった総管の正体【鎌倉殿の13人】


平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人第九話「決戦前夜」では、平維盛(たいらのこれもり)率いる頼朝追討軍が、水鳥数万羽の羽ばたきを敵襲と勘違いして敗走する衝撃の展開を迎えました。

 

オッサン武将2人がじゃれ合い、三浦義澄(みうらのよしずみ)が川に落ちて水鳥を驚かせたせいで歴史が動いたとする三谷脚本の面白さですが、弱い平家は強調されていましたね。しかし、富士川の戦いで敗北した平家は再起を図って軍事制度を大きく変更、平家は一時生まれ変わり強くなったのです。

 

 

 

平家は弱くて当たり前だった

 

さて、富士川の戦いで大敗し全国の反平家勢力を勢いづかせた平家ですが、ハッキリ言うと平家は弱くて当たり前でした。

 

しかし、それは平家が20年間の泰平で武士としての強さを失ったからではありません。元々、数万の征討軍を率い遠征して戦う経験が平家にはなかったのです。そもそも平家は、平清盛が平治の乱に勝利し政権を握った時でさえ、兵力は5000騎もいませんでした。

 

平家の総帥・平清盛

 

そんな平家が頼朝追討軍を率いた時には最盛期で7万騎を率いたというのですから、その兵力の大半は平家直轄の兵力ではなく、地方の国衙軍(こくがぐん)や各地の豪族、朝廷の武官であった事は明らかです。

 

 

追討軍は数だけ多い烏合の衆であり、彼らには平家への忠誠心はなく、ただ天皇の命令と恩賞目当てで出てきたにすぎず、東国において勢力を伸ばしている武田信義(たけだののぶよし)源頼朝(みなもとのよりとも)に戦々恐々としていました。

 

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この状況では、平家にどんな名将がいても富士川で勝利するのは不可能だったでしょう。敗戦は構造的な問題で、それが解消されない限り負けて当たり前だったのです。

 

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はじめての平安時代

 

 

平知盛が惣官に就任し強くなる平家

 

富士川の戦いに敗北した平家は、自分達の敗因が寄せ集めの兵力による士気の低さである事を把握していました。そこで、養和元年(1181年)1月19日、朝廷は平家棟梁平宗盛(たいらのむねもり)五畿(ごき)並びに伊賀、伊勢、近江(おうみ)丹波(たんば)惣官(そうかん)輔任(ほにん)し軍政を敷いて追討が継続できる体制にしました。

 

従来、家人、郎党、朝廷武官、在庁官人と士気に大きな落差のあった平家の兵力は惣官を置く事である程度平均化できたのです。

 

平宗盛が惣官に任命された事で、平家は大和(やまと)、山城、摂津(せっつ)河内(かわち)和泉(いづみ)、伊賀、伊勢、近江、丹波に直接命令を下し直接に兵馬を徴発する事が可能になり、以前のような強制力の弱い寄せ集めではなく、惣官の命令に従う軍団を編制する事が可能になりました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

奈良時代の役職である惣官

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

実は知盛が輔任された惣官は急造された官職ではなく奈良時代に定められました。惣官は、天平三年(731年)に畿内の治安維持と行政監察を任務として置かれ職員は大惣官1、副惣官1、判吏(はんり)2、主事(しゅじ)4で構成。出動するときには騎兵30騎を従え、京都および畿内の兵馬を徴発できました。

 

これらは長屋王(ながやおう)の変や渤海使(ぼっかいし)の来朝、旱害(かんがい)飢餓(きが)の人心動揺などの社会不安で引き起こされた、山賊や海賊、邪教の横行や人々の大規模な集会などの反国家的な動きに危機意識を持った朝廷が迅速な鎮圧を求めて制定したものです。

 

京都御所

 

当時から朝廷は前例踏襲主義(ぜんれいとうしゅうしゅぎ)であり、新しい事を認めないので平家は過去の文献から惣官を探し出して、上手に国家総動員体制を構築したと考えられます。

 

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源頼朝

 

 

平重衡が連敗を止める

 

富士川の戦いにおける平家の敗戦で近江源氏(おうみげんじ)が反平家の狼煙(のろし)を挙げます。平家では多くの死傷者を出した小松家の維盛に代わり、平知盛を総大将にした軍を出して近江源氏や美濃源氏と戦いを繰り広げました。

 

知盛は2ヶ月後に病気で京都に引き返し、代わって重衡(しげひら)が総大将として出陣します。

 

廃仏毀釈

 

重衡は、興福寺や園城寺を焼討した後でしたが、疲れた様子もなく、数万の大軍に膨れ上がった源行家(みなもとのゆきいえ)の軍勢を墨俣合戦(すのまたかっせん)で撃ち破りました。さらに重衡は勝利に乗じて行家の軍勢を蹴散らし続け、西三河まで勢力を拡大して、甲斐源氏の安田義定(やすだのよしさだ)と国境を接して膠着(こうちゃく)状態となります。

 

戦費負担で貧乏になる鎌倉武士

 

養和(ようわ)元年は養和の大飢饉で西日本は飢饉(ききん)に苦しみ、平家も兵糧の補給に苦しみますが、それでも、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで源義仲に敗北するまで、2年以上京都を維持できているので、惣官を置く事による兵力動員が効果をもたらしたと考えられます。

 

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頼朝もパクった惣官

学問を極めて政治家へ成長した源頼朝

 

平家が見出した惣官は、頼朝にもヒントを与えます。頼朝は文治(ぶんじ)元年(1185年)に惣追捕使(そうついぶし)を全国に任命していますが、これは追捕使のもつ軍事的権限を吸収して武家政権の地方行政組織として改変したものでした。

 

鎌倉を出禁される源義経

 

この惣追捕使が源義経(みなもとのよしつね)を追討し奥州征伐が完了した後に守護(しゅご)へと名称が変更していくのですが、頼朝は平家が奈良時代の惣官を前例踏襲の形で復活させたのを参考に、元々存在した追捕使を統括する官職として惣追捕使を置いて朝廷の権限を換骨奪胎(かんこつだったい)しようとしたと考えられます。

 

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源義経

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

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平家と言うと富士川の戦いで負けてから、倶利伽羅峠で源義仲に負けて都落ちし、以後はいいとこなしで壇ノ浦というイメージですが、実際は近江源氏、美濃源氏を下して源行家を撃ち破り、源義仲の攻勢を防ぐなど善戦している面もあります。

 

決して思考停止していたわけではなく、平家は平家で生き残る為に必死だったのです。

 

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北条義時

 

 

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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