駒若丸は元服名を三浦光村と言い、後の宝治合戦で主要な役割を果たしました。父義村にも劣らない野心家で結果として三浦氏を滅ぼしてしまう光村ですが、どんな人物だったのでしょうか?
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三浦義村の四男として誕生
三浦光村は三浦義村の四男として誕生しました。後に三浦家の当主となる泰村とは同母兄弟です。幼名を駒若丸と名付けられますが、家督は兄の泰村が継ぐ事になっていたのか、幼い頃から僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられます。
この鶴岡八幡宮で駒若丸は、将軍実朝を暗殺する公暁の門弟になりますが、そのまま僧侶にはならず三浦氏に呼び戻され還俗したようです。
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乱暴で剛直な気性だった光村
一時は坊主になる予定だった駒若丸ですが、かなり気性が荒かったようです。「吾妻鏡」によると建保6年(1218年)9月、将軍御所での和歌会の最中、駒若丸は仲間と一緒に鶴岡八幡宮の敷地に入り込んで「明月じゃ、明月じゃ」と歩き回っていたそうです。
当時、鶴岡八幡宮では宿直の武士が自主的に巡回警備していて徘徊する駒若丸と若い僧侶を見つけ注意しました。これに対して駒若丸が「何を!どこを歩こうが俺の勝手だ」とはねつけ武士に殴りかかって大乱闘になったのです。
場所が場所だけに大問題になりましたが、実は鶴岡八幡宮の巡回警備は法律に定めがあるのではなく、頼朝時代から神を敬うあまり、小侍所の武士が自発的にやっていた事でした。つまり本来は駒若丸たちが鶴岡八幡宮を歩いていても、注意される理由はないわけで、だから駒若丸は腹を立て乱闘に発展したのです。
幕府は駒若丸が元服前である事や、有力御家人の子でもあるので穏便に済ませようと、駒若丸には出仕停止を命じ、宿直に対しても「法律で決まってもいない事を勝手にやるから、こういう恥辱を受けるのだ」と諭して、以後は巡回を中止するように命じています。
この直後、駒若丸は元服して光村と名乗るようになりました。
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摂家将軍に仕える
光村は貞応2年(1223年)に北条重時や結城朝広と四代将軍九条頼経の近習になります。以後、20年にわたり光村は頼経の側近として仕えました。
寛喜3年(1231年)光村は左衛門尉に任じられて検非違使を兼任し、以後、壱岐守、能登守と受領を歴任。寛元2年(1244年)に九条頼経が息子頼嗣に将軍職を譲ると光村は新将軍を補佐する意図で幕府の最高意思決定機関である評定衆の一人に加わります。
光村は、乱暴な気性に相応しく武芸に秀でていましたが、同時に管弦にも優れ、琵琶の名手でもあったそうです。
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宮騒動
仁治3年(1242年)3代執権北条泰時が死去しました。泰時には時氏という評判が高い息子がいましたが、泰時よりも早く病死し執権は泰時の孫、経時19歳に譲られます。ところが、この経時も3年後に急病に罹り、今度は19歳の弟、時頼に執権職を譲りました。
短期間で執権が替わった事で北条得宗家の権力は弱まり相対的に長期間将軍として君臨し、大御所になった九条頼経の求心力が強まりました。
これを受け北条氏名越流と三浦氏は大御所頼経に接近。寛元4年(1246年)大御所頼経を擁する名越光時等、一部評定衆が5代執権北条時頼を排除するクーデター計画を立てます。
ところが、この時は時頼が先手を打ち、武装した武士を集めて物々しく鎌倉中を鎧武者に走り回らせて名越光時を威嚇。さらに鎌倉から諸国へ繋がる街道を封鎖した事から、名越光時は観念し降伏しました。
宮騒動には名越光時を烏帽子親とする三浦光村も加担していましたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突の回避を考え、光村を赦し京に護送される大御所頼経の警護を命じます。
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懲りない光村、頼経カンバックを誓う
こうして、大目に見られた光村ですが全く懲りていませんでした。「吾妻鏡」によれば、光村は鎌倉に戻る前に大御所頼経の前で涙を流し「いつの日か、必ずや鎌倉に帰して差し上げます」と誓ったそうです。
さらに光村は、関東申次として鎌倉と朝廷のパイプ役だった頼経の父、九条道家を味方につけると、反北条勢力や将軍派の勢力をまとめる要として暗躍、次第に北条氏に危険視されていきます。
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宝治合戦に敗れる
宝治元年(1247年)6月、穏健派の兄泰村と執権時頼との間でおこなわれていた和平交渉は、三浦嫌いの急先鋒、安達泰盛が三浦屋敷を奇襲した事で崩壊します。
戦いが起きると光村は、80騎の郎党を率いて永福寺に立て籠もって北条氏の援軍を遮断して奮戦、兄泰村に決起を促します。しかし泰村は最後まで戦おうとはせず逆に「もはやこれまで、最後は潔くしたいと思う。お前も頼朝公の魂が眠る法華堂に来い」と手紙を出しました。
いかに光村が勇猛でも当主の泰村が動かない以上敗北は確実でした。やむなく光村は永福寺を引き払い、兄が待つ法華堂へ退却します。
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対照的な光村と泰村の最期
光村は泰村の顔を見ると
「頼経殿が将軍の頃、父君の九条道家殿が、北条を倒して兄上を執権にすると極秘に約束されたのに、兄上がだらだらして果たさないから敗北の憂き目にあった。愛する妻や子と別れるばかりか、三浦が滅ぶに至り残念至極」と悔やみました。
気性の激しい光村は、自分の首を北条氏に渡してなるかと顔を刀で切り刻み、周囲に「どうだ、まだ光村と分かるか?」と聞き「まだ分かる」と言われると、さらに顔を切り刻んで、あたりに鮮血を飛ばしていたそうです。
これに対し穏健な泰村は「頼朝公の御影を血で汚すな不忠者」と光村を叱りつけると
「三浦のこれまでの功績を思えば代々の罪は赦されるだろう。我々は、曾祖父義明以来四代の名門で北条の外戚として長年支えてきたが、安達の讒言によって族滅の恥を受け、恨みと悲しみは深いものがある。だが、父義村は多くの御家人勢力を滅ぼし数多の罪を作った。思えばその報いなのだろう。今、冥土に行く身となれば、現世の妄執は無意味、北条殿への恨みもない」
このように、全てを悟りきったような対照的な遺言を残しています。三浦は一族五百名以上が自決し、北条に次ぐナンバー2だった三浦一門は潰滅しました。
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今回は打倒北条氏に執念を燃やし、最期は一族を滅ぼした駒若丸、三浦光村を解説しました。彼の兄弟子にあたる公暁も兄から将軍職を奪った叔父の実朝を殺害し将軍職を取り返そうとしましたが、乳父の三浦義村に裏切られて断念し誅殺されています。
この後先考えない権力への執念は、公暁から光村に受け継がれている感じがしますので、光村は公暁イズムの体現者とも言えますね、いや、言えないか…
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