今日の一言「私、実在しないんです!」
巴御前は源義仲の妾であり、怪力強弓の女武者として知られています。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、秋元才加さんが演じ繋がり眉のメイクでインパクトを出しています。
しかし巴御前は当時の一次史料には名前が登場せず、少し後に登場した平家物語、覚一本の「木曾最期」と源平盛衰記だけに登場するので物語を脚色するために登場した架空の人物と考えられているようです。今回はそんな巴御前について解説してみましょう。
平家物語における巴御前
平家物語延慶本によれば、巴御前は幼少期より義仲と共に育ち、力技・組打ちの稽古相手として義仲に大力を見出され成長してからも武者の1人として使われたとされます。
巴御前は色白く髪長く、容貌に優れた美女であり、義仲が平家打倒を掲げて挙兵した時、巴と山吹という2人の便女を伴い信濃を出陣しますが、山吹の方は上洛した時に病になり京都に留まったようです。
ちなみに便女というのは「便利な女」の意味であり、戦場では武者として戦い、プライベートではウヒョ!も含めて主君の身の回りの世話をする女性の意味だそうです。女性を引き連れない場合には、美少年がその役割を務め寵童と呼ばれました。
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平家物語の巴御前の最後
巴御前は、義仲の傍で活躍し宇治川の戦いで敗れて落ち延びる義仲に従い、最期の7騎、5騎になっても討たれませんでした。しかし、戦況は絶望的であり、義仲は若い巴の将来を惜しんで落ち延びさせてやろうと戦列を離れるように何度も促しますが、巴は「いいえ!最後まで一緒に」と聞きません。
そこで義仲はあえて巴のプライドを傷つけ遠ざかるように仕向けようと
「お前は何もわかっていない!この義仲が最期に女連れで死んだとあっては武士の恥辱となる、お前は邪魔なのだ!さっさとでてゆけ!」と突き放します。
巴御前は、義仲が心にもない事を言ってまで自分を生かそうとしている事を悟りついていくのを諦めます。そして「では、最後の御奉公をお見せしましょう」と言うと源氏方でも大力と評判の御田八郎師重に挑み、馬を押し並べて引き落とし師重の首を斬り落とすと、鎧、兜を脱ぎ捨てて東国へ落ち延びたそうです。
別の本では、巴を追ってきた敵将を返り討ちにした後、義仲に落ちるように命じられ、それを拒否した所「私が死んだ後に菩提を弔う事がお前の最期の奉公である」と諭され東へ向かい行方知れずになったとあり、また別の本では越後国友杉に住んで尼になったともされます。
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源平盛衰記で脚色される巴御前
源義仲の精神的な支えとして献身的に活躍した巴御前の姿は、平家物語として語り継がれていく間に様々に脚色され、平家物語をもとにした源平盛衰記ではさらにキャラクターが強化されました。
源平盛衰記の巴御前は、倶利伽羅峠の戦いでも大将の1人として登場し、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って名を轟かせ宇治川の戦いでは鎌倉方の名将畠山重忠とも戦った事になっています。
この中で重忠に巴御前とは何者かと聞かれた半沢六郎は
「木曾義仲の乳人の中三権頭の娘にて、強弓の使い手で荒馬を軽々と乗りこなす偉丈夫。また義仲とは乳兄弟ながら愛人にて、内では義仲をかいがいしく世話し外では一軍の大将にて一度も不覚を取った事がなく、今井兼平や樋口兼光とは兄弟にて、恐ろしき相手にござる」と紹介しています。
その後、宇治川の戦いに義仲が敗れると、共に討ち死にしようとする巴御前に対し義仲が「どうかお前は生き延びて、義仲の本当の志を故郷の妻子や人々に語って欲しい。それが私に殉じて死ぬよりずっと意味がある事のように思う」と諭し戦場を落ち延びています。
落ち延びた巴は鎌倉の頼朝に召し出され、和田義盛の妻となり朝比奈義秀を生み、和田合戦の後には越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ出家し義仲、父、子の菩提を弔う日々を送り91歳で生涯を終えたとされます。
源平盛衰記の記述はいずれも脚色とフィクションですが、巴御前のキャラクターが愛され、活躍が派手になっていった様子が分かりますね。
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巴御前のモデル板額御前
巴御前は存在しないと書きましたが、巴のモデルになったと考えられる女武者の記述は当時の鎌倉幕府の歴史書、吾妻鏡に登場します。
その名は板額御前と言い、越後国の有力な豪族、城氏の出身で建仁元年(1201年)に甥の城資盛と共に鎌倉幕府打倒のために挙兵、天然の要害である鳥坂城に籠城し攻め寄せてきた佐々木盛綱の討伐軍を散々に手こずらせたそうです。
吾妻鏡の記述によると
「女性の身でありながら百発百中の弓の腕前で父や兄を越えていた。人はその奇特な事を噂したが、合戦時には度々兵略を施し、少年のように髪を上げて髷を結い、腹巻胴を着こんで矢倉の上に立ち攻め寄せた敵を射たが、矢が命中した者で死ななかった人間はいない」と武勇を讃えています。
奮闘した板額御前ですが最終的には藤沢清親の放った矢が両足に当たって捕虜となり反乱軍は崩壊。その後板額は鎌倉に送られ2代将軍頼家の前に出されますが、少しも臆した様子がなく幕府の宿老を驚かせたという事です。
この板額御前の態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠が頼家に申請して彼女を妻としてもらい受ける事を許され、その後板額御前は一男一女を儲けたそうです。
板額御前は、その後甲斐国に住んだようですが、巴御前の生誕地である信濃とは国境を接しているので、この地域の女性は武装して合戦に出るのが珍しくなく、またそういう強い女性を嫁にする男がいた事が分かります。
平家物語には巴御前が越後に落ち延びたとする本もあり、板額御前に関連付けようとする様子も見られるので、巴御前は板額御前をモデルに創作されたのかも知れません。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は源義仲の愛人であり有能な武将でもあった巴御前を解説しました。実在していなかった巴御前ですが、同時代の越後国には、実際に武装して男に劣らず戦った板額御前がいた事から、女性が戦う事はありえないとまでは言えないようです。
ただ、当時でも女性は大半が合戦に参加する事は無く、夫や子、恋人の無事を祈る事しか出来なかったので巴御前のように愛する男の傍で戦いたいという願望を持つ女性が巴に自分の思いを託したという事はあったのかも知れません。
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