和田義盛は鎌倉幕府草創期の重臣で、侍所別当として幕府の軍事力を握りました。
しかし、三代将軍源実朝の時代になると、北条時政を追放して執権になった北条義時との対立が表面化、義時や北条政子の度重なる挑発に耐えかね蜂起します。
そこで、今回は和田義盛をブチ切れさせた北条氏の3つの挑発を解説します。
北条政子が上総国司就任を妨害
和田義盛は、晩年、上総国の国司を望んで、内々に将軍源実朝に頼んでいました。
実朝は、これまでの義盛の功績から国司にしてもよいと考えましたが、これを実朝の生母である北条政子が「頼朝様は力のある御家人の国司就任を禁止していた」として白紙撤回させてしまいます。
ところが、頼朝のケースは随分前の話で、実際は御家人でも八田知家や平賀朝雅などは、国司に就任していました。納得できない義盛は、これまでの自身の功績を述べ「老人の最後の頼みです!」と、もう一度、大江広元に書状を出しますが受理されず、後に義盛につき返されます。
すでに実朝は内々に許していたにもかかわらず、北条氏と大江広元に邪魔されたと考えた義盛は強い不満を感じたそうです。
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北条義時が和田一族に恥辱を与える
建暦3年(1213年)2月、泉親衡という人物が、源頼家の遺児を擁立し北条氏を打倒しようとする陰謀が露見します。親衡は逃げましたが、関係者の自白により和田義盛の子、義直、義重、甥の胤長が関係している事が明らかにされました。
その頃、上総に戻っていた義盛は事実を知って仰天し鎌倉へ帰還。将軍実朝に子や甥の赦免を願い出、義直と義重は許されますが、甥の胤長だけは許されませんでした。
義盛は大いに憤り一族96人を引き連れて将軍御所の南庭に座り込みますが、そこに北条義時が出現。「胤長は重罪人であり許されぬ」として引き渡しを拒否。さらに義時は縄で縛った胤長に南庭を歩かせ和田一族に屈辱を与えます。胤長は陸奥国に流罪となり、胤長の6歳の娘は衝撃を受けて病に倒れ死んでしまいました。
さて、泉親衡の乱ですが、和田義盛が滅びた後、関係者はほぼ全て無罪放免になったそうで、計画自体が北条氏による和田氏排除の一環の可能性があるようです。
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北条義時が胤長の自宅を強引に接収
陸奥国へ流罪となった胤長の鎌倉屋敷は幕府に没収されました。和田義盛は、罪人の屋敷は一族に下げ渡すのが古来の慣例であるとして自分に賜るよう求めます。ここには、胤長の流罪は納得できないが我慢して受け入れ、屋敷だけでも取り返したいとする義盛の切ない心情が見て取れます。
実朝は願いは聞き届けますが、義時は命令が執行される前に、乱平定に手柄があった御家人に胤長の屋敷を引き渡してしまいました。
さすがに、これはどう見ても、義時による和田義盛への挑発であり、義盛は幕府から北条氏と大江広元を排除するとして和田一族を集め、親戚の横山党も味方に引き込んで反乱の準備を開始します。
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将軍様に恨みはないが義時は許せねえ
4月になると、和田義盛反乱の噂が鎌倉中を飛び交い、将軍実朝は真偽をただす使者を義盛の屋敷に派遣しています。ここで正直な義盛は、反乱を否定せず「将軍様に恨みはないが、義時のやり方はガマンできないので、尋問するつもりでいる」と回答しました。
こうして5月2日に義盛は150騎の手勢を集めて、大倉御所と北条義時屋敷と大江広元屋敷を襲撃。義時の屋敷と大江広元の屋敷を蹂躙した後で、大倉御所に殺到します。
御所では、警備の兵と北条に寝返った三浦義村の軍勢が加勢に入り和田の軍勢と乱戦。義盛は御所に火をかけて炎上させ実朝は辛うじて裏の法華堂に退避しました。
義盛が真っ先に義時と広元の屋敷を狙った点に、この2人が共謀していて義盛に恨まれていたであろう事が推測できます。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、和田義盛をブチ切れさせた北条氏の挑発行為を解説しました。
単細胞イメージの武人義盛ですが、何も一回のトラブルでブチ切れたのではなく、トラブルが積み重なる中で、北条氏の敵意を感じ滅ぼされる前に挙兵したというのが真相に近いのではないかと思います。
参考:ウィキペディア
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