源義経は、のちに鎌倉幕府を立てた兄である源頼朝と協力して、平氏を打倒した功労者です。
平氏滅亡後は義経と頼朝は対立し、最期は義経は頼朝に討伐され、悲劇的な死を迎えました。しかし、奇妙な伝説として「義経は生き延びて大陸でチンギスハンになった」という突飛もない説が生まれました。
今回の記事ではそんな「源義経がチンギスハンになった」という伝説を検証していきましょう。
源義経の生涯
源義経は源氏の棟梁であった「源義朝」の9男として生まれました。幼名は「牛若丸」。
「平治の乱」で父が亡くなった後は、寺に預けられますが、僧になるのを嫌がり、平泉の「奥州藤原氏」に身を寄せます。
後に兄の源頼朝が平氏打倒を目指し、挙兵し、義経もそれに参加します。平氏との戦いで数々の功績をあげ、「壇ノ浦の戦い」ではついに平氏を滅亡させます。
しかし、平氏滅亡後は頼朝と対立、奥州藤原氏を頼り奥州に逃げますが、「藤原泰衡」に攻められ無念の死を遂げます。
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判官びいき
義経は戦の天才ながら若くして亡くなり、その悲劇性から多くの人の同情を集めました。そのことから「弱い立場に同情してしまう」ことを「判官(はんがん、ほうがん)びいき」と呼ぶようになりました。
「判官」は義経の官位です。この判官びいきの流れで、「義経は奥州で死なず、生き延びた」という説が室町時代くらいから語られるようになりました。
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源義経、北へ渡る
そんな「義経生存説」のなかでも「義経は北方の蝦夷地(北海道)に逃れた」という説が多く語られてきました。特に室町時代に成立した「御曹子島渡」という物語は、義経が北へ渡り「アイヌの王になった」という物語で、あまり知られていなかった蝦夷地への関心が深まるにつれて大きな注目を集めていきました。
この伝説をもとに、北海道には義経を祭る「義経寺」など120を超える義経関連遺跡があります。そんな「義経北方伝説」がさらに飛躍したのが「義経はチンギスハンになった!」という珍説です。
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チンギスハンになった源義経
この義経がチンギスハンになった、という伝説は江戸時代が始まりだと言われています。この伝説は一部で密かに語られてきましたが、一躍有名にしたのは「沢田源内」という人物が翻訳したという中国の歴史書に「12世紀の金(旧満州の国家)の将軍に源義経という者がいた」という記述があったからです。
この説がどんどん大袈裟になっていき、明治になると「義経はチンギスハンになった」という伝説になっていくのです。ただし、「沢田源内」という人物は数々の「偽書」を作った人物で、彼が翻訳した歴史書も偽書説が濃厚です。日本に滞在した学者「シーボルト」も論文にこの伝説を取り入れ、逆輸入の形でさらに広まっていきました。
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どうして源義経はチンギスハンになったと言われるのか?
チンギスハンは、モンゴル帝国の初代皇帝で、大陸に大きな領土を築いた人物です。どうして義経がチンギスハンになった、と言われるのでしょうか?
実はチンギスハンの前半生はあまりよく分かっておらず、とくに青年期は10年ほど何をしていたのか全く分かっていません。
そのチンギスハンの空白期は義経が活躍していた時期と重なるため、それを発見した人が「もしかして義経はチンギスハンになったのでは?」と発想を飛躍させたのでしょう。
特にアイヌ研究者で旧満州も調査した「小谷部全一郎」という人物が大正時代に「成吉思汗ハ源義経也」という本を出版し、当時の日本の大陸進出の勢いも相まって、大ベストセラーになり、現在までその影響は続いています。
源義経=チンギスハン伝説は本当か?
一定の支持を得た「源義経はチンギスハン伝説」ですが、現在では研究が進み、チンギスハンの前半生もある程度明らかになり、大陸もまったく証拠も残っていないことから、現在では完全に否定されています。しかし、創作物などでは度々この説は現在でも登場し、日本人の興味をひく題材となっているようです。
日本史ライターみうらの独り言
どうやら「源義経はチンギスハン伝説」はなんの根拠もないようです。ただ、もし本当だとしたら、一人の日本人が大陸を席巻したことになるので、それはロマンがあるのかもしれませんね。
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