「私は殺人マシーンです。誰であれ主の命じるままに殺します」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で視聴者の恐怖を集めているのが善児です。
名前こそ善ですがこの男、伊東祐親の命令を受ければ年端もいかぬ子どもでも平気で川で溺死させてしまう恐ろしい人物。それもいかにも凶悪な暗殺者という風貌ではなく、どこかとぼけたような顔で殺しを平然とやってのけるのが不気味です。
今回のほのぼの日本史では、この善児の正体について解説してみます。
善児は実在しないがモデルはいる
カワウソが調べてみた限りでは、善児という人物は存在しませんでした。演じているのが梶原善さんなので、その名前から善児としたのかも知れません。
しかし、さらに調べてみると鎌倉時代の暗殺者として金窪太郎行親という人物がいて執権義時の命令を受けて、数々の殺しをしていた事が分ってきました。
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源頼家の御家人を瞬殺
善児のモデルらしき金窪行親が最初に登場するのは、吾妻鏡十八巻、元久元年(1204年)7月23日で、
”左金吾頼家入道の御家人らが鎌倉の近辺に隠れ謀叛を企てた。
それがバレたので相模守義時が金窪太郎行親と配下を差し向け、たちまちのうちに皆殺しにしてしまった”
とあるのが最初です。
源頼家は、北条時政と義時により将軍の地位から引きずり降ろされ、伊豆の修善寺に強制隠居させられ、さらに殺害されますが、その頼家の御家人が仇を討とうと謀反を企てた所、計画がバレたという内容です。
金窪行親は頼家の御家人をたちまち皆殺しとあるので、恐らく正面からではなく夜中に寝静まっているのを一方的に殺戮したのでしょう。汚く不気味な手口ですが善児を連想させる殺し方ではないですか?
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侍所別当 和田義盛を挑発する
義時の命令で頼家の御家人を瞬殺した金窪行親は、その後も北条氏の勢力拡大の為に義時の手駒として働きます。
吾妻鏡二十一巻、建暦3年(1213年)3月9日には、義時が北条氏打倒の陰謀に加担したとして、侍所別当(長官)和田義盛の甥、和田胤長を罪人同然の姿で連行し義盛のプライドを傷つけようとするシーンがあり、ここにも金窪行親が登場します。
”侍所別当和田義盛が本日将軍御所にやってきました。一族九十八人を引率し南の庭に並んで座り、捕まった甥の胤長を釈放してくれるように頼んだのです。
しかし、取り次いだ大江広元がいうには、胤長は陰謀の首謀者の1人で特に計略を巡らして関与したと聞いているので解き放つ事は出来ず、より厳しく取り調べるとの事です。
すぐさま、金窪行親と安東忠家が山城判官行村へ胤長を引き渡します。相模守義時は「より厳しく尋問するように」と山城判官に申し付けました。
金窪と安東の2人は、胤長を縄で縛りあげて和田一族の目の前を通り山城判官に胤長の身柄を引き渡しました。この時、義盛は北条を滅ぼさんと決意したのだそうです”
この出来事は甥の胤長をわざと釈放しないで重罪にし、義盛に恥辱を与える事で兵を挙げさせようという義時の挑発でした。その挑発に金窪行親も参加し、義盛は謀反を決意して和田合戦と呼ばれる戦いになり義時は勝利します。
その後、義時は幕府の軍事を握る侍所別当に就任し、次官である所司に金窪行親を命じました。このはかりごとに金窪行親が深く関与している事が分かります。
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阿波局の子、阿野時元を討伐
金窪行親は侍所所司(次官)となり手勢を率いているせいか暗殺という手段は取らなくなります。しかし、非情な命令を淡々と遂行するのは相変わらずで建保7年(1219年)には、北条政子の妹、阿波局の子である、阿野時元が謀反を起こしたので征伐に向かっています。
吾妻鏡二十四巻、建保七年(1219年)2月19日には、
”禅定二品(北条政子)の命令で右京兆(北条義時)が金窪兵衛尉行親以下の御家人らを駿河国へ派遣した。理由は阿野冠者(時元)を誅殺せんがためである”と書いてあります。
この討伐命令の背景には、北条政子による頼朝や義朝の子孫を根絶やしにして、二度と将軍後継者問題が起きないようにするという意図がありました。
史実の政子の妹、阿波局は大河ドラマで宮澤エマが演じている実衣の事です。彼女は後に頼朝の兄弟の阿野全成と結ばれて時元を産みます。この時元は母方とはいえ義朝の血筋を引いていて、それ故に政子により謀反の濡れ衣を着せられ殺害されたそうです。
この時、生母である阿波局は生きていたようで妹の子の命を奪う政子の胸中はいかばかりかとも思いますが、それもまた、無用の騒乱を産まない為に仕方ないと割り切ったのかも知れませんね。
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金窪行親最後の事績
鎌倉殿の13人善児のモデルと見られる金窪行親は、義時の死後も長生きしたようです。吾妻鏡の三十四巻、仁治2年(1241年)八月十五日には行親が登場する最後の記述があります。
”鶴岡の放生会に四代将軍頼経が出席しました。
牛車に柄を差し込む時になって兵庫頭が御剣を取り、役の人、上総式部丞時秀に授けようとした所、御剣が鞘から抜けて地面に落ちてしまいました。
これは両人の失敗ではなく、怪しげな力が働いたと考えた頼経は外出を控え、金窪左衛門大夫行親を呼び出して、どういうことかを尋ねます。
行親が言うには「モノには意志というものはありませんから人とモノが反応する事はありません。従ってこれは神様からのお告げではないでしょうか?」だそうです。
行親は刀の鑑定眼に優れていて、これまでにも多くの事を言い当てています。今回の事件も行親は夢のお告げで知ったと言い、将軍や側近たちは信心深いので走湯神社に御剣を奉納するとし上総式部丞時秀を使者に立てました”
最後の記述で行親がただの暗殺者ではなく、刀剣の鑑定家として優れた能力がある事が分かり、さらに将軍頼経がすぐ呼び出せるような近い場所にいた事が分かります。義時死後も主君を変えつつ権力者の傍近くに仕えていたのかも知れません。
この後、行親は記録に登場しなくなるので、この後に亡くなったようです。
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日本史ライターkawausoの独り言
大河ドラマでは、義時の兄宗時を殺した設定になっている善児ですが、もし金窪行親が善児のモデルなら、八重の子である千鶴丸を殺し、自分の兄を殺した男を義時が役に立つという理由で起用する事になり、義時のヒトデナシぶりが強調されそうです。
さて、実際のドラマでは善児の人生はどのような変遷をたどるのでしょうか?
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