NHK大河ドラマ「どうする家康」いよいよ前半のクライマックスである本能寺の変が近づいてきました。明智光秀が信長に叛いた理由は、その心境を書き残した史料がなく永遠の謎とされていますが、謎だからこそ後世、様々な推測がされました。その中には光秀が家康に腐った魚を出したとして信長に叱責された事を恨んで叛いたとする説もあります。今回は信長の運命を変えた腐った魚について解説します。
魚が腐ってるぞ!信長ブチ切れ
事件が起きたのは、天正10年(1582年)武田家を滅ぼした徳川家康の功を労い安土城において家康を饗応した時でした。明智光秀は家康の接待を任され献立から苦心して料理を用意しましたが、その中の魚を「腐っている」と信長に因縁をつけられます。
これだけでもかなりの屈辱ですが、信長はその場で家康の接待役を解任、毛利攻めの最中であった秀吉の援軍に向かうように命じたのです。光秀は激しい屈辱に我慢できず本能寺の変が引き起こされました。
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腐っていた魚はどれ?
では、織田信長が腐っていると因縁をつけた魚はなんなのでしょうか?
この時に家康に振舞われた御馳走は、天正十年安土御献立として残っていて、その内容を知ることが出来ます。家康に出された魚は、鯉、鯛、鱸、鰈、鱶の5種類だったとされていて、この中のいずれかの魚が信長に腐っていると因縁をつけられたと考えられます。
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信長の斬新すぎる贅沢な料理
家康の接待は安土城でおこなわれていますが、もてなし好きで他人をあっと言わせる事が大好きな信長は、光秀に家康が食べた事もないような最高の料理を出せと指示したと考えられます。
魚ではありませんが、光秀が出した料理には東北でしか獲れないホヤを使った冷や汁がありました。自動車も飛行機もない大昔、東北のホヤを新鮮なまま近江まで運ぶのは至難の業でしたが、織田信長は氷を使ってホヤを冷やし続ける事で家康に出すことを可能にしたそうです。
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冷凍に失敗した魚が当たったのか?
ホヤは大丈夫だったようですが、内陸では食べられない新鮮な海の幸に信長が拘った事が、光秀に悲劇をもたらした可能性は考えられないでしょうか?光秀は信長の命令を忠実に守り、腐るリスクがある鯛や鰈のような海水魚を取り寄せたものの、運悪く、保存が上手くいかなかった魚が傷んでしまった。
光秀としては、奇抜な料理より近江の土地の産物をと考えていたのに、信長にひきずられて、海水魚を選んだ挙句、それが傷んでいると当の信長に因縁をつけられ「そもそも、あんたが傷みやすい海の魚を出せと言ったんだろうが!やってられるか!」と内心ブチ切れたのかも知れません。
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家康に喜んでもらいたい気持ちが裏目に
信長は家康を安土城で接待する前に、家康の誘いで富士山遊覧旅行に出ています。家康は全身全霊を傾けて信長を接待し、信長も非常に上機嫌でした。そこで信長は家康への返礼として、安土城での接待になるのですが信長としては、家康に喜んでもらい、流石天下人は違うと言ってもらいたかったのではないでしょうか?
そこで、光秀を接待役に任命したまではよかったものの、山海の珍味を取り寄せ保存が難しい海水魚を使ったことが、魚を腐らせるという事態を招いたのかも知れません。
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日本史ライターkawausoの独り言
魚が腐っていると言われると、光秀の職務怠慢のように感じますが、冷凍技術も自動車も飛行機もない戦国時代に、川魚よりも遥かに傷みやすい海水魚を出す事自体が、かなりリスキーな挑戦だったような気がします。それでも頑張った光秀に「魚が腐っている」と因縁をつけた織田信長は、かなり人の心が分からない感じがしますね。
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