本多忠勝には最強の称号がついています。戦国時代は数多の豪傑が登場しますが、その中でどうして忠勝が最強だと言えるのでしょうか?今回は本多忠勝が最強である理由を解説します。
この記事の目次
本多忠勝は戦国武将最強!
戦国武将最強は本多忠勝です。その根拠として、忠勝は生涯に57回も合戦に参加していながら、かすり傷さえ負った事がありません。当時は名のある豪傑でも、全身にキズがあるのが普通だったので、個人の武力では本多忠勝が最強です。
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本多忠勝の強さは天下人公認
本多忠勝の強さは豊臣秀吉や織田信長も認めています。小牧・長久手で忠勝の強さを見た秀吉は古今無双の勇士と称え、織田信長は三国志の豪傑張飛に引っ掛けて「今張飛」と呼びました。つまり忠勝は自称だけではなく、天下人2名に最強の称号を受けているのであって、間違いなく最強と言えます。
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本多忠勝の最強はなぜなのか?
本多忠勝の最強を支えているのは、日本三名槍に数えられる蜻蛉切のお陰です。この蜻蛉切は長さ6mもあり、通常の槍より1.5mも長いのです。つまり忠勝の槍は戦場の誰よりも先に届くので、忠勝の前に立った敵将は、なすすべなく敗れ去るしかありません。
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本多忠勝の最強を支える武器、蜻蛉切とは?
本多忠勝の武器は蜻蛉切です。昔、槍の穂先に止まった蜻蛉が刃の鋭さに真っ二つに切れて落ちたという伝説を持つ蜻蛉切は、日本三名槍の1つで刃渡りは43.8㎝、全体の長さは6mもありました。通常の槍は4.5mなので蜻蛉切は桁違いに長い事が分かります。この重たく扱いづらい槍を忠勝は軽々と振り回していたので、誰も近寄らず飛び道具以外で忠勝に傷を負わせるのは、困難でした。
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本多忠勝が無敗だった理由
戦国武将最強の本多忠勝は、同時に個人としては無敗でした。例えば、徳川家康がウンコを漏らすほどに追い詰められた武田信玄の上洛でも、忠勝は一言坂の戦いで馬場信春の部隊と奮戦して引き分け、三方ヶ原の戦いでは山県昌景を退けています。小牧・長久手では、16万羽柴秀吉軍に500騎で飛び込んで足止めに成功し、関ケ原では僅かな手勢で90もの首を挙げました。このように忠勝は主君家康の敗北と関係なく、個人としては生涯無敗でした。
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本多忠勝にあだ名はついていた?
本多忠勝のあだ名は複数あり有名なのは「三河の鹿」です。どうして三河の鹿かと言えば、忠勝の被っている兜が鹿角脇立兜と言い、和紙を何百枚と張り合わせて造った鹿角の前立てがついているからです。
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本多忠勝は具体的に何をした人?
本多忠勝は徳川四天王の1人で、家康の初陣である桶狭間の戦いから従軍し、以後、家康の戦いに全て参加して、卓越した武勇で家康の窮地を救いました。
特に自軍が圧倒的に不利な状態での手柄が多く、武田信玄の上洛軍に立ち向かい、家康が逃げる時間を稼いだり、小牧長久手では、16万人と圧倒的な大軍を持つ羽柴秀吉に僅か500騎で挑んで足止めしたりしました。忠勝がいなければ、家康はとっくの昔に討ち死にしていたのです。
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本多忠勝の死因は分かっているの?
本多忠勝の死因については、よく分かっていませんが、晩年には眼病を病んでいた事が分っています。目が不自由になった事で、あまり運動する事がなくなり、そこに老衰が重なって急速に体が弱ったとも考えられます。
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本多忠勝の人生最後の言葉は?
本多忠勝最後の言葉は「サムライは首取らずとも手柄が無くとも問題ではない。厳しい局面を前にしても退却せず、主君と枕を並べて討ち死にし、忠節を貫く者をサムライと呼ぶ」です。ここには生涯、家康の身辺を守ったボディーガードとしての忠勝のプライドが滲んでいます。
本多忠勝には特徴がある?
本多忠勝の特徴は、牡鹿の角を側面に配した鹿角脇立兜と、カラーリングを黒一色で統一した黒糸縅胴丸具足と呼ばれる鎧です。多くの殺生をした忠勝ですが、意外にも信仰心に篤く、鎧の上から金色で塗った大数珠を斜めにかけていました。これは自分が殺した敵にすぐに念仏を上げられるようにする配慮だそうです。
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本多忠勝の最強伝説を教えて!
本多忠勝の最強伝説には、長篠の戦い後の話があります。長篠で武田勝頼の軍勢を潰滅させた徳川と織田の連合軍ですが、大喜びする他の武将をよそに忠勝は終始浮かない顔をしていました。
そこで、どうして浮かない顔をしているのかと尋ねると、「此度の合戦で武田の豪傑が大勢死んでしまった、今後は血湧き、肉躍るような合戦は出来ない。それが残念なのだ」と答えました。忠勝は命のやり取りを楽しみ、戦を愛する根っからの武人だったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は本多忠勝が最強である理由を解説しました。忠勝は生涯に57回もの合戦に参加してかすり傷も負わない豪傑で、織田信長と豊臣秀吉にも最強を褒められ、家康が敗北する事はあっても、忠勝は生涯無敗でした。また忠勝は戦を愛し、ライバルたちが死んでいく事に意気消沈するなど、少年漫画の主人公を地で行くような人物だったのです。
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