戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は越前・一乗谷を紹介します。斯波氏が守護として入り、やがてその重臣だった朝倉氏が台頭。一乗谷を拠点に織田信長に滅ぼされるまで越前を支配していました。そんな越前・一乗谷での戦国時代の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における越前・一乗谷の人口
越前一乗谷の人口ですが、最も古い記録が江戸初期のものです。参考までに確認すると、1610年の慶長年間には福井に25000人。1663年の敦賀で15000人程度の人口だった記録が残っています。
また別の情報では戦国時代に山の谷間を使って要塞化した一乗谷には7500〜10000人住んでいたと伝わります。ちなみに現在の福井市一乗地区にはその10分1。1000人程度住んでいます。
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戦国時代の越前・一乗谷を主に支配していた者・豪族
戦国時代に越前・一乗谷を支配していたのは、主に次の勢力です。
・斯波氏
・朝倉氏
・柴田氏
・丹羽氏
・堀氏
・青木氏
・越前松平氏
古くは継体天皇が中央の大和朝廷に迎え入れられるまで治めていたという越前は、古くは高志国の一部でした。鎌倉時代は主に後藤氏で南北朝前後のころは新田氏が関わっています。そして室町時代の初期には斯波氏のほか畠山氏などが越前守護を務めました。
室町中期のころからは斯波氏が越前守護として定着しています。管領家でもある斯波氏は足利幕府の幕閣における重要な地位を占めていました。
しかし応仁の乱以降の戦国時代になると斯波氏に代わって朝倉氏が台頭しました。朝倉氏は古くから越前の豪族。一乗谷を拠点としています。朝倉氏は室町時代に斯波氏の重臣でした。
七代当主の孝景は、応仁の乱で細川勝元に接近して東軍につき、そのタイミングで越前を実効支配。ライバルの守護代甲斐氏や守護の斯波松王丸らとの争いを経て最終的に越後の戦国大名として支配します。
ところが11代当主義景の時代になると、当初足利義昭が助けを求めるなど天下を取るチャンスがありながら、義昭は織田信長を頼り、越前を出ていきます。将軍義昭の名で信長が上洛を求めますが、信長を低く見ていた義景は拒否。
信長が軍を起こすと、古くから同盟関係があった北近江の浅井氏が信長を裏切り、以降は浅井と朝倉が共同で信長に当たります。こうして信長包囲網の一角を築きました。しかし最終的に信長により滅ぼされます。
代わって越前に入ったのは信長の重臣柴田勝家。越後方面への攻撃の拠点として一乗谷から移転し、北ノ庄に城を構えます。本能寺の変で信長が倒れると、勝家はその後に台頭してきた秀吉と対立。賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れると、そのまま北ノ庄城で自害します。
勝家の跡に越前に入ったのは丹羽長秀。その後秀吉の命で青木一矩が越前に入りました。その後秀吉亡き後の関ヶ原で、青木氏は西軍に組したため、戦後は徳川家康により所領は取り上げられてしまいます。
代わりに入ったのが家康次男の結城秀康。彼は北ノ庄の字を嫌い、福井という名前に改めます。そして彼の子孫は越前松平氏を名乗り、明治時代まで福井藩主としてこの地を治めました。
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応仁の乱から家康の天下統一までに越前・一乗谷で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に越前・一乗谷で起きた主な出来事です。
- 1334年 斯波高経が越前守護に任じられる。
- 1459年 斯波義敏と守護代甲斐常治が対立し長禄合戦が勃発。
- 1459年 足利義政の怒りに触れた義敏が失脚。代わりに3歳の松王丸が越前守護。
- 1479年 斯波義寛(松王丸)は朝倉と各地で合戦。
- 1481年 義寛は朝倉孝景・氏景親子に敗れ加賀に逃亡。越前は朝倉氏の支配が固まる。
- 1531年 10代当主朝倉宗淳孝景が加賀一向一揆の内紛を利用して攻撃。
- 1565年 朝倉義景が殺害され足利義輝の弟・覚慶(足利義昭)を保護。
- 1568年 義昭が義景の元を離れ織田信長を頼り越前を脱出。
- 1570年 信長に初めて攻められるも浅井長政により助けられる。
- 1573年 3万の軍を率いた信長により朝倉氏滅亡。
- 1575年 柴田勝家が信長により越前を与えられ北ノ庄城に入る。
- 1580年 勝家が加賀を平定。
- 1582年 本能寺の変の後、勝家は清州会議で羽柴秀吉と対立。
- 1583年 賤ケ岳の戦いで敗れた勝家は、北ノ庄城で秀吉の攻撃を受け自害。
- 1583年 丹羽長秀が越前を与えられる。
- 1585年 関白豊臣秀吉により堀秀政が北ノ庄城を与えられる。
- 1592年 青木一矩が越前府中城を与えられ後に北ノ庄も与えられる。
- 1600年 関ケ原の戦いで青木氏が西軍についたため戦後徳川家康により没収となる。
- 1600年 青木氏に代わり結城秀康が北ノ庄に入ると福井と改名。福井藩を立藩し以降越前松平氏が明治維新まで支配する。
なぜ越前・一乗谷は首都になれなかったのか?
越前は京にも近いため、首都になりえた可能性があります。古代には越前を治めていた継体天皇が大和で即位。室町時代の守護だった斯波氏は足利将軍家を補佐しながら実質的に政治を執り行っていたことがありました。
また戦国大名朝倉氏を頼った足利義昭の例もあるように、朝倉義景の野望がもし高ければ、日本海側の拠点としてなりえた可能性は否定できません。さらに首都ではないものの重要な場所として、ときの権力者から重用されていたことは間違いないのも事実。
実際に織田信長が古くからの重臣柴田勝家を越前に据えたり、徳川家康が関ケ原の後、次男の結城秀康を越前に置いたりしたことからもそのように考えられます。
越前・一乗谷の経済面について
当初は斯波氏の重臣だった朝倉氏は、7代の孝景以降戦国大名として躍進します。そして経済面での全盛期を迎えたのは7代と同じ名を持つ10代孝景の時代。この時代には農業、水産業、手工業などが発展します。
そして最近の朝倉氏の一乗谷城跡の遺跡からは、当時の日本にはないとされたガラス工房跡が見つかるなどあらゆる産業が発展しました。こうして越前の経済を支えてたことが伺えます。
そして海運業も経済力を上げました。越前の西にある敦賀は、古代から港湾都市ととして渤海国や宋との交易の拠点。さらに朝倉氏が越前を支配すると、一族の者を派遣。敦賀郡司を置きました。そして川舟座・河野屋座という船仲間の組織が構築され、ここを通じて莫大な富が朝倉氏に入ります。
朝倉時代にはさらに西の若狭地域にも勢力を広げていきました。また敦賀港の町並みが整備されて行ったのはこの時代以降です。
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地震や津波などの自然災害について
戦国時代の越前の自然災害について、戦国時代に越前を直撃した地震はありません。但し広範囲に影響を及ぼした1586年の天正地震での影響は受けました。この地震では飛騨の帰雲城が埋没したのをはじめ、美濃の大垣城と越中の木舟城が倒壊しています。
また近江の長浜が琵琶湖の液状化現象により水没。若狭湾での津波被害も記録されています。しかし越前での大きな被害に関する記録は残っていません。ただ明確に残っていないだけで、越前でも相当な影響を受けていたことは確実です。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の越前・一乗谷は朝倉氏が戦国大名として台頭し支配し、越前の王国を築き上げました。そして室町幕府でも高い地位を与えられており、足利義昭が頼るほどでした。ところがそれが仇となり新興勢力の織田信長と対立。最終的に滅ぼされます。
その後柴田勝家や豊臣系の大名が続き、最終的に徳川家康の次男結城秀康の子孫が越前松平氏として幕末まで君臨。徳川家から重要な場所とされていたことは間違いありません。
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