戦国時代の日本の中心、畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は伊賀上野城を紹介します。すぐ北側にある甲賀とともに「忍者」が有名な伊賀は、戦国時代には伊賀忍者たちが活躍。
あの信長も警戒し、また家康も忍者に助けられました。そんなの伊賀の拠点だった伊賀上野の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における伊賀上野の人口
戦国時代当時の伊賀上野の人口ですが、伊賀国全体としての推定人口がありました。これによれば1150年当時185,000人だったものが1600年には558,000人と3倍に増加している記録があります。
それによると西暦900年頃の数字が、1150年の数字とほとんど変わりません。どうやら中世の室町から戦国期に入ると人口が増えていったことがうかがえます。
また江戸初期に津藩を立藩した藤堂高虎の支配下となった際の記録がありました。その支城として伊賀上野城下の人口が1万人余りとされています。
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戦国時代の伊賀上野を主に支配していた者・豪族
戦国時代に伊賀上野を支配していたのは、主に次の勢力です。
・仁木氏
・柘植氏
・織田(滝川)氏
・脇坂氏
・筒井氏
・藤堂氏
伊賀地域の歴史は平安時代の末期に記録があります。平清盛が発願したという平楽寺があったとか。その後室町時代にはこの地の守護だった仁木氏の居館がありました。
この仁木氏はやがて伊賀の中程度のみの支配となり、北部には柘植氏が独立。仁木氏の攻撃を退けます。やがて戦国になると、守護の仁木も柘植も小勢力のため、国人衆が群雄割拠していました。そのため周辺の大名の影響受けるようになります。戦国の中期に畿内地方を支配していた三好勢、あるいは伊勢の北畠氏、南近江の六角氏らの侵攻を受けます。
しかし伊賀の国人ら諸勢力(伊賀十二人衆)は、この時は団結して外部の勢力跳ね返し、一部を除いて平時は独立状態をつづけました。やがて戦国後期になると織田信長が畿内を支配。伊賀もその影響を受け始めました。当初は信長が援助して仁木義視が伊賀の守護に据えます。
これに伊賀の国人衆は反発し、これにより織田勢と対立。またこのころ自治のための伊賀惣国一揆(1552〜1567の間で明確な年代不明)が起こります。
だが天正年間になると、信長の次男、織田信雄が単独で8千程度の兵にて伊賀を侵攻。天正伊賀の乱がおきます。一度目は伊賀勢が勝ちました。ところが二度目は信長自ら動き、5万の大軍で再度侵攻。ついに伊賀勢が破れ、信長が平定します。伊賀守護には北畠系の信雄家臣、滝川雄利が付きます。
本能寺の変の後、台頭する羽柴秀吉に対抗するために信雄が徳川家康と対立。小牧長久手の戦いが起こります。その際、脇坂安治が伊賀を攻略。1年間伊賀守護になりました。この後大和の戦国大名だった筒井氏の筒井定次が伊賀に入ります。このとき、仁木古館跡に現在の伊賀上野城が築城されました。
関ヶ原の直前の会津討伐にしたがった定次は、西軍に上野城を奪われますが、家康の許しを得て、奪還。そのまま江戸時代に伊賀上野藩を立ち上げます。しかし1608年筒井騒動が勃発。筒井氏は改易となります。代わって幕末のころまで、津藩の一部として藤堂氏が支配しました。
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応仁の乱のころから家康の天下統一までに伊賀上野で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に伊賀上野で起きた主な出来事です。
- 1337年 仁木義直が伊賀守護になる。伊賀に仁木氏館が築城されるが年代などは不明。
- 1487年 仁木貞長が足利義尚の近江親征に従い戦死。
- 1521〜1528年 大永年間に伊賀守護の仁木兵部少輔に反発した柘植一族は、数度にわたり仁木氏に勝利し独立を保つ。
- 戦国時代に仁木氏の勢力は中部に絞られ、北部は六角、南部は北畠の勢力下に入る。
- 1558〜1561年 永禄初期の三好長慶全盛期には伊賀にも間接的な影響力が及んでいた。また長慶は伊賀守を名乗っている。
- 1552〜1567年頃 伊賀惣国一揆がおき、伊賀の国人衆が国規模で結合。伊賀十二人衆として掟書を制定した。
- 1569年 仁木長政が伊勢の北畠を実効支配した滝川一益の働きかけにより、織田信長に降るも、伊賀の国人衆は反発。
- 1578年 日奈知城主・下山平兵衛が織田信雄に接近し、伊賀攻めの手引きを行う。丸山城の修築を行うも、それを察知した伊賀衆が放った伊賀忍者の攻撃に遭い敗走。
- 1579年 信雄は単独で行動し、8000の兵で攻撃(第一次天正伊賀の乱)するも、伊賀勢の反撃にあい敗走。信雄は信長に「親子の縁を切ると」までいわれる。
- 1581年 信長自ら伊賀攻めを開始。信雄を総大将として5万の大軍を送り込み制圧。(第二次天正伊賀の乱)
- 1581年 信雄家臣の滝川雄利が伊賀守護となり、平楽寺の跡に砦を築く。
- 1582年 本能寺直後に北畠具親が伊勢から伊賀に落ち延び、伊賀国一揆の再起を図るも雄利が鎮圧。
- 1584年 雄利は羽柴秀吉と対立した信雄に従い、小牧長久手の戦いでは徳川家康の家臣、服部正成(半蔵)の援軍を受けて40日間籠城するも開城し撤退。
- 1584年 脇坂安治、雄利の籠る伊賀上野城を攻略し、1年間この地を支配。
- 1585年 筒井定次が大和から伊賀上野に転封される。定次は伊賀上野城を築城。
- 1600年 定次は家康に従い東軍として遠征するが、伊賀上野城が新庄直頼、直定に奪われる。家康の許しを経て軍を引き返し城を奪還。そののち関ヶ原に向かい、家康に所領を安堵される。
- 1603年 定次が伊賀上野藩を立藩。
- 1608年 筒井騒動により筒井氏が改易。伊賀上野藩は津藩に吸収され、藤堂氏が幕末まで支配。
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なぜ伊賀上野は首都になれなかったのか?
伊賀上野の周辺が首都になれなかった理由。いろいろと考えられますが、まずは伊賀の周辺に首都に適した場所があったことが大きいです。首都は経済の中心でもある場合が多く、そうなると水運の便利なところが政治経済の拠点にした方が有利でした。
伊賀は山に囲まれているため、守るのには便利が良いですが、流通面では不利。周辺の京都や近江(安土)あるいは大坂といった場所のほうが首都に最適です。もうひとつは信長が侵攻するまで長い間、伊賀は小さな国人領主たちが独立していた地域でした。
これを裏返せば大名たちが本格的に支配する場所としての順位が低いと考えられます。山に囲まれた伊賀よりも、畿内周辺のほうが先に支配して勢力を拡大すべき場所と考えていた大名たちは、伊賀攻略を後回し。つまり伊賀を首都どころか拠点にする場所ではなかったと推測できます。
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伊賀上野の経済面について
伊賀の戦国時代の経済面を見ると、領主たちが特別な経済的なものを行った記録もなく、信長の平定以降でも特に経済的な情報や記述はみあたりません。しかし奈良時代から伊賀の産業のひとつだった伊賀焼について興味深い情報がありました。
1200年ほど前の奈良・天平年間から焼かれていたという伊賀焼ですが、いつしか廃れ気味になります。それを戦国時代に再興した人物がいました。
享禄の頃(1528-1532)に陶工の太朗太夫・次郎太夫が丸柱で伊賀焼を再興。「伊賀焼の創始者」との異名を持ちます。
そしてこれは戦国から安土桃山時代に入ると、伊賀焼の存在が多くの人に知れ渡りました。そして独特の風情が良いと、あの千利休ら著名な茶人たちに愛されます。また大名間の献上品にも採用されていました。
ところが江戸時代初期の領主・藤堂高久が、原料である白土山の陶土の濫堀防止を行います。その結果、陶工たちは信楽に移動。そして信楽焼が発展しました。そのようなこともあり、この伊賀焼が伊賀地域の経済に一役買った可能性があります。
また臨済宗の開祖で中国から茶を持ち込んだ、茶祖・栄西の弟子・明恵が、1210年頃にお茶の栽培に適した場所を全国から調査。その中に伊賀が選ばれました。そして茶が栽培され、伊賀茶として現在も名産地となっています。伊賀焼同様、この伊賀茶も戦国時代の伊賀地域の経済を支えていた可能性が十分高いでしょう。
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地震や津波などの自然災害について
伊賀上野地域での戦国時代における自然災害についてみると、山で囲まれているために津波の心配はありません。また地震について影響があったのは1586天正年におこった天正地震です。これは伊賀に限らず、畿内から北陸・東海にかけて広範囲で被害を与えました。
しかし他の地域ではその被害の凄まじさの記録が残っていますが、伊賀については特に記述がありません。影響があったとしてもそれほど大きくなかったことが考えられます。戦国期を除けは幕末の1854(寛永7)年に起きた伊賀上野地震がとくに有名です。
これは伊賀上野城の東・西大手門の石垣が崩れ、番人4名が死亡。全体でも625名が死亡したと伝わります。また「伊賀上野城下被害絵図」が作成されるなど、その影響の大きさをほうふつとさせられます。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の伊賀上野は忍者たちの活躍もさることながら、信長が平定するまでは比較的小さな領主が群雄割拠していました。しかし対立するのではなく、伊賀惣国一揆という形で共存共栄の道を模索していました。
信長以降は支配する領主が定まり、秀吉の時代を経て江戸時代になります。数名が交代しましたが、最終的には城づくりが得意な藤堂高虎の支配下に。その結果幕末まで伊賀地域は藤堂氏支配の安定した時代を迎えます。
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