戦国大名を三代で解説するシリーズ。今回は真田氏を取り上げます。初代幸隆・二代昌幸・三代信繁彼らはどのように家督を引き継ぎ、そして戦国の世をどう生き抜いたのか、時系列に解説していきます。
この記事の目次
真田一族は信濃国で誕生
真田氏は信濃国(長野県)で興った豪族です。真田氏の系図によれば、平安初期の清和天皇での第4皇子貞保親王の孫とされる善淵王の流れです。善淵王は醍醐天皇より905(延喜5)年に滋野姓を賜り、皇籍を離れて滋野善淵となりました。
滋野氏は3つの家に分かれ、東信濃地域を勢力下におきます。そのうちのひとつ海野氏の系統が、真田氏につながっていきました。鎌倉時代で源頼朝の御家人だった海野幸氏の時代に海野氏の勢力が急拡大し、一族が各地を治めます。
その幸氏の孫に海野幸継というものがいて、その七男・幸春が、真田の地(小県郡真田町)に住むことになり、以降真田氏を名乗るとされます。
つまり鎌倉時代の真田幸春が真田氏の祖であり、以降真田氏が海野氏の一族として真田の小豪族であったとなりますが、戦国時代まで目立った記録はありません。
ただし系図は残っており、次に真田が歴史の表舞台に登場するのは、初代幸春から数えて12代目の子孫にあたる真田頼昌です。ただしこの間の記録が残っていないため、歴史家の間では真田氏の祖について現在も研究途上です。
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初代・真田幸隆が主君海野氏の娘を娶り台頭
今回取り上げる初代・真田幸隆が真田家当主になるまでの経緯を紹介しましょう。それにはまず先代で実質的な真田家初代と比定されている、真田頼昌の時代から見る必要があります。
頼昌は、同族本家である海野棟綱の娘を娶りました。その子供が幸隆です。また海野棟綱の子との説もあります。本家の娘との子、あるいは本家の庶子が幸隆という血筋上の条件から真田家を継いだと考えられます。
頼昌の名前は記録に残っていますが、彼の時代に具体的に何をしたのかということについては情報がありません。ただ残されていた位牌から1523(大永3)年に没したとあるので、これ以降、幸隆が真田家当主を継いだものと推測されます。
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武田晴信に仕え勢力を伸ばす
真田幸隆の時代は、甲斐(山梨)の武田氏が国内統一と信濃の国の進出を行っている最中でした。武田信虎(信玄の父)が、信濃の国人と組んで、1541(天文10)年に海野棟綱をはじめとする滋野三家の拠点(信濃小県郡・佐久郡)に侵攻。海野平の戦いが起こり、海野勢は敗れ去ります。
この戦いに幸綱が戦った記録はないものの、他の海野一族とともに上野国(群馬県)に亡命します。その後信虎が晴信(信玄)に追放され、武田氏の代が変わると、幸隆は晴信に従うようになります。
そして武田氏家臣として信濃先方衆として軍役を務め、信濃の国人衆の調略を行いました。信濃で最後まで武田に抵抗していた村上義清が、越後(新潟県)に逃れたころには完全に旧領を回復しました。
幸隆は川中島の合戦にも出陣し、敵方の長尾氏の最前線として戦いました。後に息子信綱とともに武田二十四将に加えられています。晴信が出家し、信玄を名乗るようになると、幸隆も出家して一徳斎を名乗ったとも伝わります。
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長篠の戦いで兄が死に家督を継いだ真田昌幸
真田 昌幸は、幸隆の三男です。そのときにはふたりの同母兄、信綱、昌輝がいました。信綱は真田の後継者として武田家の騎馬200騎を持ち、昌輝は騎馬50騎を持つ侍大将として独立しました。
昌幸は、家督相続の可能性は薄く、幼少の頃には武田の人質として甲斐に送られ、信玄の奥近習衆となっていました。やがて信玄の母方である大井氏の支族、武藤氏の養子となり足軽大将になりました。
昌幸の名前が出始めたのは1569(永禄12)年の小田原攻めの時で、北条氏との戦いで一番槍を挙げました。その才能は信玄も認めており、駿河信仰の偵察などを務めました。こうして信玄の側近としての日々を送りました。
信玄の死後、武田勝頼が家督を継ぎ、引き続き勝頼に仕えましたが、転機が訪れたのは1575(天正3)年でした。すでに父・幸隆が死去し、長兄・信綱が後を継ぎましたが、この年に行われた織田信長との長篠の合戦で次兄・昌輝とともに討ち死にしてしまいます。信綱には子がいましたが、勝頼の命令により昌幸が真田家当主を継ぐこととなりました。
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武田、織田、徳川、北条の間を綱渡りする昌幸
家督を継いだ真田昌幸は当初は自領と武田家と勝頼のいる甲府の往復をしていました。その間、越後で謙信の後を継いだ上杉景勝との同盟、北条側の所領だった沼田領などを攻略するなどしましたが、1582(天正10)年に、信長により武田氏は滅亡。
昌幸は最後まで武田家の忠誠を示す一方で、周辺大名との接触を図りながら生き残りを模索していました。信長の家臣に取り込まれた後は、重臣滝川一益の与力となります。しかしわずか3ヶ月後に起きた本能寺の変で信長が死ぬと、織田家臣団は美濃方面に逃走。
周辺の大名による旧武田領の争奪戦が始まりました。これに昌幸も参加。旧武田家家臣を取り込みます。さらに滝川一益が北条氏に敗れると一益を送り届けた後、沼田城を奪還します。
その後上杉景勝、北条氏政、徳川家康と、主君を何度も入れ替えながら最終的に羽柴秀吉陣営に加わり、家康と対立しました。この後第一次上田合戦として家康が侵攻してきますが、これに勝利しています。この間、沼田への攻撃や大名同士の約束で沼田領が奪われかけますが、昌幸は断固として拒否します。
1586(天正14)年には秀吉の命令により家康の与力となりますが、その2年後に大坂に行き、秀吉と謁見。正式に豊臣大名となりました。
家督は継げないが独立し、大坂の陣で有名になった真田信繁
真田 信繁は、別名の幸村が有名です。結論を言うと真田昌幸の次男である信繁は真田本家を継いでいません。継いだのは長男、信之です。
ただ歴史上の活躍としては信繁の方がはるかに有名。信繁は父・昌幸が秀吉に服属した際に、人質として大坂に送られました。小田原征伐では、石田三成の指揮下で忍城を攻めました。そのころに大谷吉継の娘を正室に迎えています。
朝鮮出兵(文禄の役)にも参陣の記録が残っています。1594(文禄3)年に豊臣姓を賜り従五位下左衛門佐に叙任されています。このころには秀吉の馬廻衆(親衛隊のような護衛)となっており、昌幸とは別に1万9000石を有していました。そのため真田の家督を継ぐのではなく、分家し、独立した大名の扱いになっていたと考えられます。
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大坂の陣で真田丸を築いて奮戦した信繁
秀吉が亡くなり、関が原の合戦を迎えるにあたり、昌幸と次男信繁が西軍につくことになり、長男信之は東軍になります。昌幸と信繁が石田三成や大谷吉継といった西軍側に近く、信之が徳川家重臣・本多忠勝の娘を妻に迎えていたために東軍側に近いという事情や、東西どちらが勝利しても真田家を残すためともいわれています。
関ケ原の前哨戦である第二次上田合戦では、昌幸と信繁が秀忠軍を苦しめ、関ヶ原本戦への遅参につながりました。本線で東軍が勝利すると信之が正式に真田家を継ぎ、上田藩を9万5000石を拝領、立藩します。
対して昌幸と信繁は命を助けられ高野山麓の九度山に配流されます。父・昌幸は1611(慶長16)年に死去しました。信繁は出家しますが、豊臣氏と徳川氏との対立が始まると、豊臣家は浪人を集めようとします。
信繁はこれに応じて大坂城に入り、大坂側として大坂の陣を戦いました。信繁は大阪城の弱い部分とされるところに真田丸という出城を築いて戦います。冬の陣での活躍もあり、夏の陣が始まる前に徳川方から10万石を条件に寝返るように説得を受けますが、信繁はこれを拒否、そのまま夏の陣を迎えます。
そして死を覚悟した信繁の真田隊は、徳川の大軍を翻弄し、ついに家康本陣に迫りました。家康が自害を確保するほどの奮戦ぶりを見せつけます。しかし、数の力で圧倒された真田隊は撤退。最終的に信繁は四天王寺近くの安居神社で、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に打ち取られました。
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真田三代の有力家臣
・矢沢頼綱(幸隆の弟・昌幸の叔父)
・常田隆永(幸隆の弟・昌幸の叔父)
・常田俊綱(幸隆の甥・昌幸の従兄弟)
・鎌原幸重(鎌原城主・幸隆の甥、昌幸の従兄弟)
・大戸真楽斎(手子丸城主(大戸城主)、幸隆に味方)
・海野輝幸(沼田城代、幸隆・昌幸の家臣)
・根津昌綱(禰津城主、昌幸の家臣)
・恩田越前守、伊賀守(森下城主、昌幸の家臣)
・鈴木重則(名胡桃城主、昌幸の家臣)
・丸子三左衛門(丸子城主、昌幸、後に信之の家臣)
・横谷幸重(雁ヶ沢要害、忍者・昌幸、後に信之の家臣)
・横谷信氏(信繁の家臣)
・堀田興重(信繁の家臣)
・高梨内記(信繁の家臣)
・横谷庄八郎重(信繁の家臣、真田十勇士 猿飛佐助のモデル)
なお、信繁の家臣として有名な真田十勇士は、伝承上の架空の人物です。
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昌幸以降の真田家
関が原で東軍につき上田藩を立藩した信之は、徳川幕府からは譜代格として扱われます。大坂の陣では徳川方として、豊臣方に入った信繁(幸村)と戦うことになります。その後1622年に上田から信濃松代藩に13万石転封となります。
沼田領3万石は独立していましたが1680年に改易となり、真田家は10万石の大名として明治維新まで生き残りました。現在の真田家当主は、工学者の幸俊氏です。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
真田氏は幸隆の時代は武田信玄の家臣として活躍し、その子たちも武田騎馬隊を構成する一因でした。長篠の合戦で本来家督を継ぐ予定のなかった昌幸になり、信長、秀吉時代を生き抜きました。
関ケ原の合戦で、長男信之と次男信繁と別れながら、家の存亡を図り、信之がそのまま藩主となりましたが、命が助けられた信繁は、大坂城で家康あと一歩まで追い詰めた活躍を見せつつも、最後は散っていきました。
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