戦国時代でも有数の著名な戦いと言えば、五回に渡って繰り返された川中島の死闘です。その中でも第四次川中島の戦いは屈指の名勝負とされ、混戦の中で上杉謙信が武田信玄の本陣に斬り込んで一騎打ちに及んだという伝説まで生まれました。
しかし、この一騎打ちの伝説、どこかの誰かが適当にでっち上げたものではなく、幾つかの風聞が折り重なり誕生したものだったのです。
第四次川中島の戦いとは?
第四次川中島の戦いは、長尾景虎が関東管領上杉憲政から管領職と上杉家の家督を譲渡され、将軍足利義輝にもそれを認められた事が発端です。正式に関東管領職に就任した景虎は、関東制圧の大義名分を手にし、北条氏康が立て籠もる小田原城を包囲しました。
関東管領のネームバリューは高く謙信に味方して小田原城を包囲する関東の大名は多くなり、窮地に陥った北条氏康は同盟を結んでいる武田信玄を頼ります。
武田信玄は、これを受けて北信濃に進軍し川中島に海津城を築きます。背後を脅かされ籠城が長引いて関東の大名が勝手に撤兵するのを見た景虎は小田原城の包囲を解きました。
途中、景虎は負け犬ムードを返上すべく鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家家督継承と関東管領就任の儀式を大々的に行い、名前を上杉政虎と改めています。
越後に帰還した政虎は、海津城を落とすべく越後を出陣し善光寺を経由して妻女山に布陣、これに対し武田信玄は塩崎城に入りました。
ここから両軍は睨み合いになりますが、野戦での政虎の強さを知る信玄は、正面攻撃を主張する重臣を退け、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じます。
2人は武田の兵力を二手に分け、別動隊に妻女山の政虎を攻撃させ上杉軍を麓の八幡原に追いやり、ここに平野で待ち伏せした信玄の本隊が攻撃を仕掛けるキツツキ戦法を提案します。
しかし、政虎は海津城の炊煙が多い事から信玄の行動を察知し、兵士に一切の物音を立てる事を禁じて夜陰に乗じて妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡り、武田本隊の正面に出ていました。
夜が明けると信玄の本隊8000名は眼前の上杉軍に激しく動揺、信玄はキツツキ戦法が敗れた事を悟ります。
武田軍本隊は上杉軍の猛攻に壊滅寸前になりますが、妻女山に登った別動隊が必死に巻き返し、景虎の背後を突いたので逆に挟撃される形になった景虎は、勝機が過ぎた事を悔やみつつ、善光寺に向けて退却を開始しました。
有名な信玄と謙信の一騎打ちの伝説は、この混戦の最中に起きた事とされているのです。
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混戦から伝説は生まれた
史上有名な第四次川中島の戦いですが、同時代の確実な史料が存在せず、甲陽軍鑑のような軍記物に頼らざるを得ない背景があり、伝聞や憶測、事実誤認、そして願望込みの様々な内容になっています。
しかし、事実として川中島の戦いがあった事は否定できず、また第四次合戦が非常に激しく大勢の死傷者が出た戦いであった事も事実で、その混戦の中から信玄と謙信の一騎打ちの伝説も登場しました。
上杉景虎とマブダチだった近衛前久が景虎に宛てた書状には、政虎自ら太刀を振るったと書いていて、第四次川中島の戦いが大将直々に太刀を振るわないといけない程の激戦であった事を裏付けています。
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様々なバリエーションがある一騎打ち
信玄と謙信の一騎打ちのパターンで言えば、一番有名なのが甲陽軍鑑でしょう。ここでは、上杉政虎が白手拭で頭を包み、放生月毛に跨り、名刀小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几に座る信玄に三太刀斬りつけ、信玄は床几から立ち上がり軍配でこれを受けます。
ここで、御中間頭の原大隅守が槍で騎馬武者の馬を刺すと武者はその場を立ち去ったとあり、この騎馬武者が後に上杉政虎と判明したとされます。
しかし、謙信が出家したのは川中島の戦いよりも以降の事であり、当然、白手拭で頭を包んでいるという描写もおかしいので、これは謙信が出家して僧形になる事を知っている後世の人間の捜索でしょう。
また、上杉方の史料である「北越軍談」では、一騎打ちが行われたのは御幣川の中とし、信玄と謙信は騎馬で共に太刀を持って斬り合い、信玄が負傷して退いたと記録されています。上杉家御年譜に至っては、斬りかかったのは謙信ではなく荒川伊豆守とされています。
上杉家御年譜の荒川伊豆守の話が武田サイドに上杉政虎と誤認されたと考えるとそれが甲陽軍鑑に伝わって、信玄と謙信の一騎打ちの雛形になったかも知れません。謙信と信玄の一騎打ちにも様々なバリエーションがあり、同時に両者がライバルとして広く認識されていた事が分かりますね。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は川中島の一騎打ち伝説はどうして生まれたのかを解説してみました。信玄と謙信の一騎打ちは伝説ですが、その背後には謙信自ら太刀を抜かないといけない大激戦があり、信玄も謙信もかなり動きの速い戦場の変化に振り回された様子が分かります。
第四次川中島の戦いは名勝負であり名勝負だからこそ、それに付随して一騎打ちをはじめ数多の伝説も登場してきたのでしょう。
参考:Wikipedia
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