NHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場した徳川家康の三男、長丸。彼が後の二代将軍徳川秀忠となる事は有名ですが、家康に比較すると扱いは小さく、恐妻家で側室の1人も持てなかった事や、上田城で真田昌幸に翻弄され、関ケ原の戦いに間に合わないなど、トホホな人物扱いさえされます。でも、それは事実なのでしょうか?
この記事の目次
生後5か月で長兄信康が切腹。家康の後継者へ
長丸は1579年徳川家康の三男として遠江国浜松城で誕生します。生母の西郷局の実家、三河西郷氏は土岐一族で室町時代初期には三河守護代を務めた名家であったようです。長丸が誕生してから僅かに5ヶ月後、長兄信康が切腹します。順番で行けば異母兄である於義丸が家康の後継者になるハズでしたが生母の身分が低く豊臣秀吉の養子に出たために長丸が後継者となります。
こちらもCHECK
-
真田昌幸とは何者?徳川家康に一泡吹かせずーっと恨まれた国衆
続きを見る
実は家康が期待していた長丸
家康は小牧長久手の戦い後の講和で秀吉の妹とである旭姫を正室に迎えていますが、一説では、もし旭姫との間に嫡男が生まれても徳川の家督を長丸以外には継がせない事や、長丸を秀吉の人質にしない事、家康が死んだ場合には、必ず長丸に徳川五か国を継承させる事など、多くの条件を飲ませていたようです。家康が幼い長丸に期待していた様子が分かります。
こちらもCHECK
-
結城秀康とはどんな人?秀吉の養子となり征夷大将軍の地位を逃した家康の次男
続きを見る
秀次事件の後、淀殿の妹、達子を正室にする
長丸は、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛し秀吉の偏諱を受けて名を秀忠と改めました。さらに文禄の役で家康が秀吉の朝鮮出兵の命令を受けて、九州の名護屋に出陣すると榊原康政や井伊直政の後見を受けつつ関東の領地を守ります。
1595年、豊臣秀次事件が起きて秀次が切腹すると、秀吉は誕生したお拾(秀頼)の生母である淀殿の妹である達子(於江)を秀忠と娶せました。秀忠はそれなりに秀吉に信じられていたようで、1598年に書かれた秀吉の遺言状では、家康が年を取って病気がちになった場合には秀忠が代わって秀頼の面倒を見る事とされています。
こちらもCHECK
-
大坂夏の陣で真田幸村の突撃が成功し家康が戦死したら日本はどうなる?
続きを見る
関ケ原に遅参するが叱責の理由は別にある
秀吉が死ぬと秀忠は関東に帰国。関ケ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、秀忠は上杉景勝への備えとして宇都宮に残留。その後、中山道を通り叛いた真田氏を平定する別動隊の指揮を命じられました。しかし、信濃国上田城攻めに手間取り、9月8日には家康から即時上洛を命じられるも間に合わず、関ケ原の戦いに遅刻する大失態を演じます。
ドラマでは、この遅参に家康が激怒し、秀忠の後継者の地位が危うくなったような描写がありますが、家康が秀忠を叱責した理由は関ケ原の戦いに間に合わなかった事ではなく、兵を無暗に急がせ疲弊させた点についてであったようです。
こちらもCHECK
-
大名はどうやって歴史に登場したの?平安時代から戦国まで徹底解説
続きを見る
右近衛大将となり将軍職世襲が確実になる
1601年3月に秀忠は大納言となり関東へ帰国します。翌年の1月には家康より関東領国の内20万石を与えられました。1603年2月12日、家康は征夷大将軍に就任し、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に奏上。1603年4月16日に任命されました。こうして秀忠の徳川宗家の家督相続が確実となります。
こちらもCHECK
-
戦国大名が好んだ「官位」弾正忠とは?信長の家系では代々名乗っていた?明治時代にも残っていた官位
続きを見る
征夷大将軍となり二元政治が始まる
1605年、家康は将軍職を秀忠に譲り秀忠が第2代征夷大将軍に就任しました。こうして、将軍・秀忠は江戸城で執務し、駿府城に住む大御所・家康との二元政治体制になりますが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治をし対立は起きませんでした。
秀忠は将軍になると軍事力の強化を開始、将軍の親衛隊として書院番、翌年には小姓組を創設。その後、関東の大名・旗本を観閲、1610年には4万人を動員した盛大な巻き狩りを成功させました。家康は巻き狩りの成功を見て、秀忠に将軍を任せても大丈夫だと確信し、自分の死後には、家康の幼い子である徳川義直・徳川頼宣を特に引き立てることを頼んでいます。家康は秀忠に財政の譲渡を開始、それまで駿府に収められていた年貢の多くを江戸に納めるように命じています。
こちらもCHECK
-
貫高制と石高制はどう違う?それぞれのメリットとは?
続きを見る
大坂冬の陣では家康ではなく秀忠が指揮
大坂冬の陣で秀忠は家康が出陣しようとするのを土井利勝を派遣して止め、自分が出陣するので家康は関東の留守を守るように伝えています。家康は自分が出ると言いますが、秀忠が自ら出陣し、問題があれば豊臣を滅ぼすと土井利勝に伝えさせたので家康は引き下がりました。存在感の薄い秀忠ですが、部分部分では将軍の権威を見せ、家康を引き下がらせたりしているのです。
こちらもCHECK
-
一国一城令で本当に困ったのは大名ではなかった?忖度で決まった城の存続
続きを見る
家康が死去するとリーダーシップを発揮
家康が1616年に死去すると秀忠の親政が開始されます。秀忠は家康のブレーンである本多正純や金地院崇伝、天海、林羅山を引き続き重用する一方で、不必要と考えた重臣は親藩の付き家老にしたり、特権を奪うなどして整理し、自身を支えた酒井忠世、土井利勝ら老中を幕府の中枢として自らリーダーシップを発揮しました。また、家康時代には緩かった海外貿易に関しても中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定し制限貿易の布石にします。
こちらもCHECK
-
江戸にはどうして人口が集中したのか?
続きを見る
将軍としてお家騒動を裁定し領地を安堵する
以後、秀忠はなんどか上洛しながら諸大名の領地を安堵する黒印や朱印状を発給し、寺社にも所領安堵状を出しています。また娘の和子を後水尾天皇の中宮として皇室と幕府の関係を強化。1622年には諸大名へ妻子を江戸に住まわすことを命じています。有力外様大名のお家騒動も自ら裁定し、最上義俊や本多正純を改易にし、参勤交代を中断した松平忠直についても隠居を命じるなど将軍の権威をこれでもかと見せつけました。
1623年上洛後に長男の家光に将軍職を譲りますが、家康と同様に隠居後も権力を手放さずに大御所として二元政治を開始します。1630年には娘の和子が産んだ孫、女三宮が明正天皇として即位し天皇の外戚となるなど威信を高めました。
こちらもCHECK
-
石川数正はどうして豊臣に出奔してしまったのか?【どうする家康】
続きを見る
息子、松平忠長の乱行に悩み死去
秀忠には、家光と忠長の2人の子がいて、忠長は実母の於江や秀忠に溺愛されるほど聡明で利発な人物だったようです。しかし、溺愛されて我儘で乱暴な性格になった忠長は、将軍を継げない自分の境遇に苛立ち、秀忠に過大な要求をして困らせるようになります。秀忠が嫡男の家光に将軍職を譲った後は、乱行が酷くなり、秀忠は1631年、忠長の領地を召し上げて蟄居を命じます。このころから秀忠は体調を崩し1632年3月14日に52歳で死去しました。
こちらもCHECK
-
朝日姫(旭姫)とは?秀吉の妹が徳川家康の正室になった事情【どうする家康】
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
偉大な徳川家康と比較し小粒な印象を持たれがちな徳川秀忠。しかし、関ケ原の戦いの時、秀忠は21歳であり、あまり遅参を責めるのも酷な気がします。むしろ秀忠の真価は幕府が開かれた後にあり、成長するに従い落ち着き、創業者家康の仕事を引き継いで精力的に幕府の基盤固めをするなど守成の名君と呼ばれるに相応しい能力の持ち主と言えるでしょう。
こちらもCHECK
-
武家諸法度とはどんな内容?目的や中身や大名の弱体化の意図など解説
続きを見る