鳥居忠吉は家康の祖父の松平清康の時代から仕えた三河武士です。忠吉はただの武士ではなく、商人としても財をなしていて岡崎城で今川氏の搾取を受けながらも少しずつ富を蓄えていき今川義元の死後に家康が独立する資金を用意した人物であるとされます。今回は忍耐と忠義2つを備えた三河武士鳥居忠吉を解説しましょう。
鳥居忠明の子として誕生
鳥居忠吉は鳥居忠明の子として誕生します。生没年は不明ですが元亀年間に死去した時に80歳を過ぎていたそうなので文明から明応年間の生まれと考えられます。忠吉の家は純粋な武士ではなく、矢作川を利用した水運で財産を築いた兼業武士でした。松平家に仕えたのは、松平清康が岡崎城に進出した頃と考えられ、岡崎譜代と呼ばれた家臣層に位置づけられています。
桶狭間以前の家康
-
徳川家康が人生をスタートさせた時の徳川家の状況は?【どうする家康】
続きを見る
松平清康に仕える
しかし、忠吉が仕えた清康は尾張の織田信秀と戦っている最中に家臣に暗殺されました。清康の息子、広忠はわずか10歳で、松平家は清康の弟である松平信定に乗っ取られ岡崎城も信定の支配下にはいります。
広忠は最初、伊勢の吉良氏を頼って逃亡し、その後は駿河の戦国大名今川義元の保護下に入り、松平信定が死ぬと今川家の後ろ盾を背景に本拠地岡崎城を取り戻しました。こうして、忠吉は清康に続いて広忠に仕えるのですが、広忠は今川家の援助を受けるために幼い息子竹千代(家康)を駿府に人質に出します。
そうまでして松平家を維持しようとする広忠ですが1549年には23歳の若さで病死しました。後継者の竹千代は駿河に預けられたままであり、今川義元は代わりに城代を岡崎城に派遣しました。
家康のつらい人質生活は嘘?
-
つらく苦しい人質生活は嘘?今川義元に大事にされていた家康【どうする家康】
続きを見る
今川家に収奪される三河
基本的に、岡崎の行政は鳥居忠吉と阿部定吉の2人の実務に任されていましたが収穫物の取り分は今川家が多く、松平家は搾取されている状態に苦しみます。それでも忠吉は、いつか家康が元服して岡崎城の当主となる日を夢見て、毎日僅かずつ貯蓄に励んでいました。
忠吉の頑張りぶりは岡崎の三河武士団に影響を与え、貧しさに苦しんでも主君の為に合戦では命を惜しまない三河武士の精神が誕生したとされます。
三河武士団とは?
-
三河武士団とは何者?家康を持ちあげて叩き落とす!頼りになる国衆【どうする家康】
続きを見る
岡崎に帰った家康に資金を提供
松平元康となった家康は19歳で桶狭間の戦いに初陣し、今川軍の先遣隊として大高城に兵糧を運び込む仕事をします。ところが途中で今川義元が織田信長に討たれる事件が発生。家康は命からがら岡崎城に逃げ戻り、これからどうしようと途方に暮れました。
その時、鳥居忠吉は家康を秘密の蔵に案内し、今川氏の目を盗んで蓄えた財産を見せ、家康に感謝されたそうです。
こちらもCHECK
-
徳川家康の旗印「厭離穢土欣求浄土」ってどんな意味?【どうする家康】
続きを見る
岡崎城で隠居する
その頃、鳥居忠吉はかなり高齢になっていて岡崎城で留守を守る事になり、家康の戦いには、三男の鳥居元忠が従軍して、父に劣らぬ手柄を立てる事になりました。忠吉の長男、忠宗はそれ以前に松平家に仕官して戦死していて、次男は仏門に入っていたようです。
こちらもCHECK
-
三州錯乱の大事件とは?家臣が家康を見限った?徳川家康の大ピンチ「どうする家康」
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
今回は徳川家康が戦国大名として独立する資金を確保した財政面の忠臣、鳥居忠吉を解説しました。武芸に秀でた武士は沢山いますが、財政面に強い武士は得難く、その意味で忠吉は家康に取って貴重な人材だったんだろうと思います。
こちらもCHECK
-
「家康の家系」風雲松平三代!覇王清康、没落した広忠を経て桶狭間から40年で天下人になった家康の家系を紹介
続きを見る