越後の戦国大名、上杉謙信。「戦国最強の武将」とも言われています。この呼称は決して誇張ではありません。
史実として確認できる合戦でも彼の戦績は優秀すぎますし、武田や北条といったオオモノ達をてんてこまいさせたのは紛れもない実績です。
ですが、こういう話をすると、あまり歴史に詳しくない人からはこんなことを言われます。「どんなに強かったのなら、どうして天下を獲れなかったの?」と。まるで、「天下を獲れなかったということは、つまり、実力は言われているほどではなかったのだろう?」とでも言いたげに。失礼な!
この問いに対して、一度、しっかりとした答えを用意しておこうと思い立ちました!
この記事の目次
上杉謙信はぶっちゃけどれだけ天下に近かったの?
まずは、彼の天下獲りの公算について。いろいろ条件を並べてみると、なるほど、戦国諸大名の中でも突出した実力を持つ大勢力の長といえます!
・越後という肥沃な土地を拠点にしていた
・越後の兵という、当時でも「命令に忠実で精悍」と恐れられていた兵団を動かせる立場にあった(これは上杉謙信がそういうふうに越後の兵を鍛え上げていたから、なのかもしれませんが)
・関東管領という室町幕府下の肩書きについても申し分ないものを持っていた
・佐渡の金山を含め、農作物以外の資金源も豊富に確保していた
そして何より、引き分けは何度かあったものの、負け戦は生涯二度しか喫していない(しかもこの二敗はかなり若い頃のもの)という、めっぽうな戦績の良さ!この人物が動けば、なるほど天下取りも可能だったのではないか、と思えてきます。では、彼が実際には天下を取れなかったのは、何が足りなかったからなのでしょうか?
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天下統一をするならば上杉謙信に決定的に足りなかったもの!?
ここからは自説になってきますが、私としては、以下のように考えております。上杉謙信が好条件を持ちながらも天下を獲れなかったのは、彼にひとつだけ、決定的なものが足りなかったからだ、と思うのです。上杉謙信に足りなかったもの。それはおそらく、「天下を獲る、やる気」だったのではないでしょうか?
まあ、彼の人生を見てください!
戦績の良さとは言うものの、彼はみずから「正義のための戦いしかしない」と公言しているほど、大義名分を重んじる性格でした。織田信長のように、天下を取る気まんまんでギラギラしているところが、ないのです。武田信玄のように、「なにがなんでも京に武田の旗を!」と言い続けているような粘着性もないのです。
織田信長も、武田信玄も、目的意識が明確で、そのためには家族や重臣もどんどん粛清していく強烈さを持っていました。逆に、そのような強烈さがなければ、天下統一など望めないような時代でした。しかし上杉謙信の、正義を重んじる性格は、そういうギラギラした野心とは無縁の方向を見ていたように思えます。
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みずからの天下などよりも関東の秩序が関心事だった?
そもそも彼の「戦績」も、よくよく吟味してみましょう。その戦いは関東甲信越での緒戦、特に、武田信玄や北条氏康との抗争に明け暮れています。天下を目指すならば、北陸道を西に向かう、京都方面への戦闘がもっと多かった筈なのに、です。西へのルート確保に関心がなく、関東での戦争ばかりに集中していたこと。
これはよくよく考えれば、不思議なことではありません。上杉謙信が天下取りというものに目標を置いておらず、マジメに「関東管領」をやっていたから、ということではないでしょうか。室町幕府体制の権威ある「関東管領」を拝命したからには、期待されている通りの関東の秩序回復を、自分の生きている間にやり遂げねばならない、そう考えていたのではないでしょうか?もちろん、その室町幕府体制がもはや風前の灯火だったわけですが、それが決定的になるのは信長の上京後のこと。
実際、信長が天下統一に王手をかけた途端、これまでとは打って変わって、上杉謙信は信長討伐のための西上ルートを確保し始めます。自分の天下獲りには興味がなく、関東管領としての責任の全うと、室町体制に対する逆臣(つまりは信長)の始末にのみ興味を示す上杉謙信。
この様子ならば、もし彼がもう少し長生きして、織田信長軍をうち破り、信長にかわって京都に入ることがあったとしても、足利義昭を再び将軍の座につけて、それを見届けたら、自分はまた関東方面に戻ってきてしまっていたのではないでしょうか!
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まとめ:そんな上杉謙信の何が悪い?
しかし、天下獲りの「やる気」がなかったことは、何か悪いことでしょうか?天下を獲ることばかりが戦国大名の目的ではなかった筈です。自分の領地をしっかりと固め、その上で、関東一円に秩序をもたらすというのも、並みの戦国大名にはできない、じゅうぶんに大きな目標でした。
それに、鎌倉時代や南北朝時代のことを思い出せば、「関東一円に勢力を築き、京都から離れつつも大きな独立権限を有する」というのは、間違った戦略とはいえません。
もしあなたが、上杉謙信の重臣であったとしても、そんな性格と考え方の主君について、無理に天下を獲ろうと説得するよりは、ぜひ関東一円に「上杉独立大勢力」を築くことに協力したいと思いませんか?
だいいち、天下を本気で獲るならば、たくさんの裏切りや騙し討ちや粛清、比叡山や南都の焼き討ちまでやらねばなりません!そんなことの指示をする上杉謙信、見たいですか?
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戦国時代ライターYASHIROの独り言
結論として、「どうして天下を獲れなかったの?」に対する答えは、「やりたくなかったからだ」となりましょう!そして、それの何が悪い?天下を獲ったか獲らなかったかだけが実力のバロメータではないだろう?ということに尽きるかと思います!
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