二・二六事件は、昭和11年2月26日に発生した陸軍青年将校による国体改造のクーデターです。陸軍の兵士1500名以上が参加し高橋是清や斎藤実など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。
後の日本の政治に大きな影を落とした2・26事件とは、一体どんな事件だったのでしょうか?
二・二六事件の背景
二・二六事件件の背景には、世界恐慌と金輸出解禁の2つの要因がありました。それぞれについて解説していきましょう。
世界恐慌は1929年(昭和4年)10月29日アメリカウォール街の株式大暴落を切っ掛けとして発生します。
第1次大戦で被害を受けなかったアメリカは世界経済を左右するまでに急成長していましたが、株の大暴落により大損害を被った投資家は金融市場から資金を引き揚げ、世界経済は急速に縮小。資金繰りが悪化した企業は次々に倒産し、倒産を免れた企業でも大規模なリストラが起きて街には失業者が溢れました。
それまで世界から莫大な輸入をして好景気を牽引していたアメリカの経済不振により、アメリカを最大の輸出国としていた日本も大打撃を受け、企業倒産が相次ぎ失業者があふれたのです。
また同時期、日本は輸出産業を強化するため金本位制に再参加していましたが、世界大恐慌が長引いたので輸出は振るわず、同時に金本位制では、国内の金保有分しか紙幣を発行できないので景気対策として財政出動する事も出来ませんでした。
このため、日本政府は景気対策とは真逆の緊縮財政の継続を余儀なくされ、失業対策が打てない政府に対する国民の失望は急速に広がります。
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農村の惨状
特に世界恐慌の影響を強く受けたのは、都市ではなく日本の農村でした。当時の農家は主要な輸出品である生糸と国内で消費される米の生産で生計を立てていましたが、世界恐慌により生糸の輸出額が大幅に落ち込み生糸相場が暴落したのです。
さらに昭和5年は米が大豊作で、米余りの状況から米価が下落し農村は生糸と米の両方で収入減が断たれる悲惨な状態に追い込まれます。
追い打ちをかけるように昭和6年は一転して大凶作となりますが、この頃、都会で失業した労働者が農村に戻りだし、農村は余剰人口を抱えて飢饉に拍車がかかりました。食べていくために農村では娘の身売りが日常的になり、栄養失調の児童や、学校に弁当を持って行く事も出来ない欠食児童が問題になります。
しかし、当時の日本政府は金本位制へ参加したばかりで、農村を救うどころか緊縮財政を敷き、有効な対策が打てませんでした。特に東北地方太平洋岸は昭和8年に三陸大津波の被害を受け、昭和9年にはまたも大凶作に見舞われるなど被害が長引きました。
二・二六事件を起こした青年将校は多くが農村出身者であり、仕事がない故郷に帰れずに軍隊に入隊したものが多く、農村の窮状に何も出来ない政府に対する不満が渦巻く事になります。
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政党政治の腐敗と満洲事変
当時の日本は憲政の常道と呼ばれた二大政党制が続いていて、立憲政友会と立憲民政党が、内閣総辞職を契機に交互に政権を握っている状態でした。
しかし、世界恐慌を受けても政府は金本位制を維持して緊縮財政を敷き景気対策を打てないばかりか、立憲政友会と立憲民政党が相互に汚職を暴き合って泥仕合を続け、また、大資本である財閥も政治家と癒着。不景気を利用して二束三文の価値になった企業を吸収して力を伸ばし、貧しい暮らしをしている国民に恨まれます。
また、日本が大陸に築いた権益である満洲における排日運動の激化と日本の権益を無視する満洲軍閥の張学良や、革命外交を掲げ、日本との間で結ばれた条約を一方的に破棄した蒋介石政権に対する政府の弱腰も国民を失望させていました。
この時に勃発したのが昭和6年に関東軍主導で引き起こされた満洲事変でした。満洲の諸問題を武力によって解決した関東軍に対し、国外では非難の声が巻き起こりましたが、国内においては関東軍の行為を賞賛する世論が強く、腐敗した政党政治に代わって軍部に期待する論調が強まっていきます。
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5・15事件
世論の支持を受けた陸海軍の青年将校の中に、国内の右翼や社会改革を目指す団体と提携して、腐敗した政党と財閥による政治を打破して昭和維新を成し遂げようとする一派が誕生します。
彼らは武力行使も辞さない過激派となり、昭和7年には満洲事変により建国された満洲国の承認を頑なに拒否した犬養首相を総理官邸に襲って殺害する5・15事件を引き起こしました。
総理の死により犬養内閣は総辞職、その後も慣例に従い立憲政友会より総理を出す予定でしたが陸軍の若手将校が猛反対し、新たな5・15事件の勃発を恐れた政府は、海軍軍人出身の斎藤実を次の内閣総理大臣に指名し軍部の反発に配慮します。こうして、憲政の常道は崩壊し二大政党制は戦後まで復活しませんでした。
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皇道派と統制派の対立
満洲事変以降、国民の支持を集めた陸軍では、路線を巡る食い違いが生じ統制派と皇道派の対立が表面化します。統制派は陸軍中枢の高官が中心となり、政府や経済に介入する事で軍部の力で政府を変えていこうとしました。
一方皇道派は、議会政治を廃止し天皇が直接政治を執行する天皇親政を標榜し、武力クーデターも辞さない過激派です。
この両派の争いでは現実的な路線を踏襲する統制派軍務局長の永田鉄山が皇道派を軍の要職から追放して勝利を収めます。しかし、この事を恨んだ皇道派の相沢三郎中佐が白昼、永田鉄山を斬殺する相沢事件を起こし、統制派の勢力は押し戻され皇道派の力が盛り返しました。
この後、皇道派が永田を失い意気消沈していた統制派を追い落とし政権を握ろうとして起こしたのが昭和11年の二・二六事件だったのです。
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昭和天皇の決断
2・26事件勃発直後、陸軍首脳はクーデターを起こした青年将校に同情的な訓示を出していました。軍首脳は同士討ちを回避したがり、青年将校の言い分も聴くべきとする雰囲気があったのです。
クーデターは上手くいくかと思いましたが、これを打ち砕いたのは青年将校が崇拝してやまない昭和天皇の激しい怒りでした。
天皇はクーデター参加者を賊徒と呼び、反乱鎮圧を渋る軍首脳に対し、
「お前達に出来ないなら、朕自ら近衛師団を率いて賊徒を鎮圧する!馬引け」と叱責したのです。
天皇自らの鎮圧となれば陸軍の威信は丸つぶれとなるので、ここに到ってようやく軍首脳も賊徒を断固討伐する方針で固まり、アドバルーンを上げたり、ラジオを通してクーデターが天皇により反乱と認定され彼らが賊となっている事を告げ、速やかに所属部隊に復帰して命令を待つようにと呼び掛けました。
自分達に味方してくれると信じていた天皇の怒りを買ったと知った青年将校は激しく動揺して戦意を失い、兵士を所属部隊に帰らせた後で首謀者の2人は自決。
それ以外の将校は「統制派の陰謀だ」として自決を拒否、事実を法廷で争うとして陸軍刑務所に収監されます。
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日本史ライターkawausoの独り言
二・二六事件により皇道派は大打撃を受けますが、それにより息を吹き返したのは政党政治ではなく陸軍の統制派でした。
襲撃されて後、総辞職した岡田内閣の後継として外交官出身の広田弘毅が首相となりますが、統制派は広田の組閣時から執拗に干渉し、遂に悪名高い軍部大臣現役武官制が復活します。
これは、内閣の陸海軍大臣は現役の軍人でないといけないという決まりであり、軍部はこれを悪用し、気に入らない総理が就任しそうになると陸海軍大臣を出さない事で組閣を断念させ、軍部の主張を内閣に飲ませるようになりました。
以後、内閣は軍部の要求を拒否できなくなり日華事変に突入し戦いは泥沼化。やがて、大陸の利権を狙い蒋介石政権を支持する英米との対立が先鋭化し大東亜戦争、そして敗戦へと突き進んでいくのです。
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