信長の親衛隊「黒母衣衆(くろほろしゅう)」で活躍したのはどんな人たち?ビッグネームから「あの一件」で有名になった無骨者まで!

25/12/2021


黒母衣衆となり頭角を表す佐々成政

 

織田信長を取り巻く「黒母衣衆(くろほろしゅう)赤母衣衆(あかほろしゅう)」というものをご存知でしょうか?

 

麒麟にまたがる織田信長

 

それは総大将である織田信長(おだのぶなが)の直接指揮で動く、直轄部隊。特に黒母衣衆というのは、旗本であるところの「馬廻衆(うままわりしゅう)」の中でも、特に信長に目をかけられた武者十人が選抜されて構成されていた部隊とされています。

 

赤母衣衆に選抜される毛利秀頼

 

母衣(ほろ)というのは騎馬武者が背中につけるマントのような武具のこと。黒い母衣をつけた選抜エリート部隊が戦場を駆けていたとなると、なんとも風格があり、味方からも一目置かれ、敵には恐れられる存在だったのではないでしょうか?

 

今回は、この黒母衣衆について、どのような人材がいて、どのような活躍をしたのかを、二名ほど選んで追いかけてみたいと思います!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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まずはビッグネームから!佐々成政の生涯!

佐々成政

 

まず黒母衣衆から出発して、おおいに出世した有名人から見ていきましょう。

 

それは佐々成政(さっさなりまさ)です。黒母衣衆の筆頭として抜擢され、まさに信長と一緒に各地を転戦した人物でした。近畿一帯が信長によって平定されると、佐々成政は柴田勝家(しばたかついえ)と共に北陸遠征に加わります。

 

信長から直属の鉄砲隊を預けられ戦う

 

ここで佐々成政は強豪であるはずの上杉景勝(うえすぎかけがつ)軍を相手に善戦し、あわや景勝を敗るかという勢いでした。しかしその最中に本能寺(ほんのうじ)の変が起こり,北陸遠征はやむなく停止となっていました。そのまま越後の上杉家を倒すないし恭順させることに成功していたら、その武功により、佐々成政は信長政権下の超重鎮にまで成長していたかもしれません。

 

無断参戦して手柄を立てる前田利家

 

この佐々成政が面白いのは、秀吉(ひでよし)の時代になるとかつての同僚である前田利家(まえだとしいえ)としばしば衝突し、ついには一時的に徳川家康(とくがわいえやす)に寝返るという大胆なことまでした点でしょう。実は前田利家は、もういっぽうの母衣衆、すなわち「赤母衣衆」の筆頭でした。

 

黒母衣衆のリーダーと赤母衣衆のリーダーとが、主君の死後にまったく違う政治判断をしてライバルどうしになるなど、戦国時代の中でもドラマティックな関係を歩んだ二人と言えるのではないでしょうか。

 

もっとも、その後の出世ぶりとしては前田利家のほうが圧倒的で、いまや歴史小説やドラマでも、佐々成政は前田利家が主人公の物語の「かませ」のような形で有名になっているきらいもなきにしもあらず、ですが。

 

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織田信長スペシャル

 

 

ビッグネームとはいえないが、「あの一件」のせいで歴史ファンの間で愛され続けるあの男!

黒母衣衆に抜擢される毛利良勝(毛利新介)

 

それほど有名ではないが重要な黒母衣衆出身者として、毛利良勝(もうりよしかつ)をあげておきましょう。この毛利良勝は、通称の「毛利新助(もうりしんすけ)」の名前のほうで、むしろ有名かもしれません。

 

今川義元の首を取り名を上げた毛利良勝(毛利新介)

 

というのも、かの桶狭間(おけはざま)の戦いで、大将である今川義元の首をとった人物として記録されているのがこの「もうりしんすけ」という名前なのです。この功名は現代にまで続くホマレと言えます、

 

今川に指を噛み千切られた毛利良勝(毛利新介)

 

歴史小説やドラマで、桶狭間の戦いが描かれるとき、「毛利新助が見事に義元を討ち取りました!」とか、この場面だけ具体的に名前が出てくるキャラクターになっているからです。「今川義元(いまがわよしもと)にトドメを刺した」という一件の大手柄で、現代でもディテールにこだわる歴史小説やドラマでは実名が登場するというカタチで生き続けているわけです。

 

特に、桶狭間の戦いでは、織田信長が突然一騎で出陣し、「それに追いついてきたわずかな手勢だけで義元の本陣を攻撃した」とされています。

 

きっと毛利良勝も、信長が突然、馬で駆けて行ったと聞くや、すかさず武器を持って飛び出し、何の疑念もなく信長の命令に従い、そのまま戦場で一番手に飛び出して大手柄をあげるような、無骨な戦国武者だったのでしょう。織田信長が、この手のタイプの近習をとくに寵愛していたような気配もあり、「黒母衣衆」の雰囲気が伝わってくるエピソードです。

 

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はじめての戦国時代

 

 

まとめ:特異な信長にあまりに適応しすぎた?黒母衣衆の二人のその後

馬に乗って戦う若き織田信長

 

桶狭間の戦いに限らず、織田信長は、突然の出陣や、突然の撤退など、神出鬼没(しんしゅつきぼつ)な動きを得意としていた人物でした。この主君についていくには、若いうちから信長と一心同体のように過ごしてきた、忠義心の強い無骨者たちが必要だったことでしょう。

 

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戦国史ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

これだけ信長とのアツい関係で結ばれていた黒母衣衆ですが、毛利良勝は本能寺の変の際にあえなく討ち死にし、生き残った佐々成政は、先述の通り、新しい権力者である秀吉と家康との間でどっちつかずな態度をしてしまい、最終的には不遇な死を迎えます。

 

あまりにもアツい絆で信長と結ばれていた黒母衣衆は、わずかな例外を除いて、信長なき後の世には適応できなかったのかもしれません。ただ、若い頃から、織田信長とまさに一心同体で生きてきた彼ら。他の主君とうまくいくケースは稀で、むしろ織田信長と運命を共にするように、最初から定められていた人たちだったのかもしれませんね。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

 

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通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
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