本日の一言「おら、カーネ持ってんだぁ~」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で奥州平泉に独立勢力を築いているのが藤原秀衡です。
藤原清衡から始まる奥州藤原氏の三代目当主であり、源頼朝の異母弟、義経を匿っていた事でも有名ですね。そんな秀衡の特徴はズバリ桁外れの金持ちである事で奥州藤原氏百年の栄華もその財力なしには実現不可能でした。今回は北方の王、藤原秀衡について解説します。
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河内源氏との因縁が深い奥州藤原氏
奥州藤原氏は、初代清衡、二代基衡、三代秀衡と続く奥州の支配者でした。元々、奥州は豪族安倍氏の支配下にありましたが、大和朝廷が派遣した国司を殺した事で、源頼義・義家父子の征討軍に攻められます。
黄海の戦いで征討軍を撃破した安倍氏ですが、頼義は安倍氏と敵対する清原氏を味方に引き込んでリベンジし遂に9年の戦いの末に安倍氏を倒しました。その後、奥州の支配者は清原氏に変わりますが、今度は清原家衡と藤原清衡で家督を巡る争いが起きます。
この時、陸奥守だった源義家が清衡に加勢した事で清衡の勝利で終わり平泉を拠点に百年の支配が確立する事になりました。
義家は加勢の見返りとして、河内源氏と奥州の富を折半するハズだったのですが、河内源氏の後ろ盾だった藤原摂関家が白河上皇の院政開始により力を失い、また義家の軍事介入自体が朝廷の許しを得ない私戦だったので問題視され、戦争に流用した陸奥国の年貢を納めるように命じられるなど、莫大な借金を背負いました。
さらに陸奥守を解任された義家は余力を失い、泣く泣く奥州から手を引き、都に戻るしかなかったのです。このように奥州藤原氏は、河内源氏の助力で成立した部分があり、同時に義家の失脚で奥州の富を藤原氏が独占した経緯から河内源氏との関係は微妙でした。
ミイラになった秀衡の容貌
藤原秀衡は保安3年(1122年)頃に二代目奥州藤原氏当主、藤原基衡の子として誕生します。秀衡の遺体はミイラとして残っていて分析によると、身長164センチ、イカリ肩で肥満体質、腹が出ていて幅広い胴回りであり、鼻筋が通った高い声を持ち、顎が張った大きな顔と意志が強そうな太く短い眉だったそうです。
当時としては堂々たる偉丈夫ですが、重度の歯槽膿漏で虫歯もあり、甘いモノや美味しいモノを多く食べた美食家だったのではと考えられています。これも奥州藤原氏が富を握っていた証拠と言えるかも知れません。
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父基衡死後に家督を継ぎ奥州17万騎の総大将に
保元2年(1157年)父、基衡の死去を受けて家督を相続し奥六郡の主として出羽国・陸奥国の押領使に就任します。これは出羽と陸奥一円の軍事・警察の権限を握る官職で諸郡の郡司を主体とした武士団17万騎を統率するものでした。
秀衡が家督を継いだ頃、都では保元の乱、平治の乱を経て武家である平家が貴族を抑えて権力を振るっていましたが、さしもの平家も奥州平泉には手を出せず、平泉は平安京に次ぐ人口を誇り仏教文化を成す大都市でした。
秀衡の財力は奥州名産で当時の戦には欠かせない馬と砂金により支えられ、それらの財力を使い、秀衡は度々中央政界へ貢金し有力な寺院にも土地の寄進などをして評価を高めます。
秀衡は、さらに平治の乱で藤原信頼の関係者として陸奥に流罪となった陸奥守、藤原基成の娘を妻に迎え中央政界ともパイプを築いていきました。
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蛮族と蔑まれ源平合戦には介入せず
このような働きかけもあり、嘉応2年(1170年)5月秀衡は従五位下・鎮守府将軍に叙任されます。従五位下からは歴とした貴族でしたが、都の公卿の反応は複雑でした。
右大臣藤原兼実は、日記「玉葉」の中で秀衡を「奥州の蛮族」と蔑み、従五位下任官を「世が乱れる原因」と嘆いています。当時の貴族は奥州を罪人を流す僻地で鬼が住む蛮地と認識し、平泉の財力を恐れながら得体の知れない野蛮人として毛嫌いしていました。
秀衡の耳にも「野蛮人」だの「鬼の仲間」というような公卿たちの悪口は入っていて、都合の良い時だけ「さすが奥州藤原氏!」と持ち上げ、普段は「北の蛮人風情が…」と見下す中央政権に不信感を持ち源平争乱の時代も、特定の勢力に組せず中立を貫いていました。
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義経を養育するが最後は解き放つ
秀衡は安元年間(1175年~77年)頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司、源義経を匿って養育しました。
しかし、治承4年(1180年)義経の兄、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると義経は兄の下に向かおうとします。
秀衡は義経を気に入っていて強く引き止めますが、義経はそれを振り切り密かに館を抜け出していきました。
秀衡は止めても無駄だと悟り、佐藤継信・忠信兄弟に義経を守るように命じて送り出します。
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源氏にも平家にもつかず中立を保つ
養和元年(1181年)平清盛が死ぬと後継者の平宗盛は8月15日に秀衡を従五位上・陸奥守に叙任します。同時期に京では秀衡に頼朝を討つように院宣が出たと噂されました。
いずれも平宗盛が奥州藤原氏を利用して鎌倉の頼朝を牽制しようとする計略ですが、源氏も平家も信用していない秀衡は中立を貫き平家や源義仲からの援軍要請があっても黙殺し続けました。
軍事力は出さない一方、豊富な資金をバックに平重衡により焼け落ちた東大寺の再建に頼朝の5倍五千両の鍍金料を出すなど寺社勢力とのパイプが疎遠にならないように配慮をしています。
鎌倉の頼朝は秀衡を警戒、調伏のために江の島に弁財天を勧請したり秀衡の動きを警戒し自ら上洛するのを中止していました。調伏というのは神仏に祈り敵に天罰が降るように願う事ですので、頼朝は神頼みとはいえ、秀衡を脅威に感じていた事実が分かります。
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頼朝の干渉に対し当初は下手に出る
しかし、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすと鎌倉の頼朝が急激に力を伸ばしていきます。文治2年(1186年)に頼朝は「陸奥国から都に献上する馬と金は自分が仲介しようとの書状を秀衡に送りつけました。
これまで独自に朝廷とのパイプを作ってきた秀衡にはいらぬ世話であり、頼朝が自分を下に見てきている事を感じる内容でしたが、秀衡は優勢な鎌倉と交戦する事は回避し、以後は馬と金を鎌倉に届けるようになりました。
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逃げてきた義経を匿い、頼朝と敵対
一方で秀衡は、今後も独立を放棄するまで頼朝の干渉が続くと考え、文治3年(1187年)2月、頼朝と対立して挙兵し平泉に逃げてきた義経を匿い、頼朝と敵対します。
頼朝は激怒しますが、秀衡の政治手腕を恐れて軍事行動は起こさず、朝廷を通じて秀衡に無理難題を押し付け外交圧力を掛けていくに留めます。頼朝は高齢の秀衡が長くない事を考え、秀衡死後に行動を起こそうと静観の構えに出ました。
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後継者問題を解決させ死去
秀衡にも鎌倉への対応以外に早急に解決しないといけない問題がありました。それが後継者問題です。秀衡には六人の息子がいましたが後継者は正室の子の次男泰衡でした。しかし、側室の長男、国衡も堂々たる人物で、一族の間では公家の娘から生まれた泰衡よりも身近な国衡という意見が強かったのです。
この事から泰衡と国衡の関係は険悪で、秀衡死後に頼朝が国衡に接触して味方に引き込み奥州が分裂する事を秀衡は恐れていました。
そこで秀衡は自分の正室である藤原基成の娘を国衡に与えています。これにより泰衡から見て国衡は兄ではなく義理の母を妻にした父という事になりました。家督は泰衡に継がせるものの、国衡は藤原基成を岳父として立場を強固にしたのです。
こうした上で、秀衡は泰衡、国衡、義経を呼び、義経を主君として仕え団結して頼朝の攻撃に備えよと遺言。文治3年(1187年)10月29日に65歳前後で死去しました。それは義経が平泉に秀衡を頼ってより9ヶ月後であり、義経に取っては急すぎる死でした。
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日本史ライターkawausoの独り言
秀衡の死後、頼朝は当主になった泰衡に謀反人義経を引き渡すよう圧力を掛け、圧力に抵抗しきれなくなった泰衡は義経を殺し首を鎌倉に送り届けて恭順謝罪しました。
またこの間に泰衡は義経の身柄を巡り、六人の兄弟と軋轢を起こし内紛が起きていたとされてもいます。
頼朝の狙いは最初から義経の首ではなく奥州藤原氏を滅ぼす事であり、朝廷の命令を待たずに頼朝自らが出陣し奥州合戦の末に泰衡は討たれ奥州藤原氏は滅亡しました。それは秀衡の死から僅かに2年後の事だったのです。
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