NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、最新の日本史研究も反映されています。
その特徴が甲斐源氏武田信義の描写でしょう。従来、頼朝が河内源氏の嫡流であり、それ以外の河内源氏は頼朝より1ランク落ちると考えられ大河もそのような描写でした。
しかし最新研究で、それは頼朝が勝手に言い出した事で、当時は頼朝が河内源氏の嫡流と認められていたわけではない事が分かってきました。加えて信義と頼朝には対立せざるを得ない理由がありました。それが河内源氏を衰退させた70年前の殺人事件だったのです。
この記事の目次
源頼朝と武田信義の共通の祖先
源頼朝も武田信義も、その先祖を遡ると源義家に辿り着きます。義家は八幡太郎と呼ばれ、前九年の役、後三年の役で奥州覇者である安倍氏、さらに清原氏と戦って破り、結果的に奥州藤原氏の成立をアシストした名将です。
義家は武勇に秀でたので、朝廷の評価も高く晩年には白河法皇の引き立てで正四位下の官位まで昇進、伊勢平氏の平忠盛が台頭するまで武士として最も出世した人物でした。
さて義家には、弟として義綱と義光、出家した快誉がいました。この義綱と義光は兄に劣らず優秀であり義家死後に大きな波瀾を引き起こします。
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嫡男、源義親が平正盛に討たれる
理想的武士として後世まで崇められた義家ですが、子育てには失敗しました。嫡男義親は武勇抜群でしたが狂暴な性格で素行が悪く、トラブルを起こして隠岐に流罪にされます。
しかし、嘉承2年(1107年)義親は反省の色なく出雲国目代を殺害して独立を宣言し、周囲の武士団にも義親に同調する者が出現しました。白河法皇は捨ててはおけないとして、出雲国の国守で自身の寵臣でもあった伊勢平氏の平正盛に命じて討伐させます。
正盛は義親を討ってその首を掲げて京都に凱旋、白河法皇の絶大な信頼を勝ち得ます。逆に河内源氏は身内から反逆者を出して没落しました。
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源義忠が平氏と院政に接近し勢力を保つ
嘉承元年(1106年)源義家が死去し、家督は三男の義忠が継ぎます。しかし、義忠は反乱を起こした兄を討伐する事が出来ず、その手柄を平正盛に奪われます。また、平正盛は義忠の正室の父であり、血縁的にも頭が上がらない相手でした。
後白河法皇は院政を敷いて、その手足として平正盛を引き立て摂関家と繋がりが深い、河内源氏との待遇の差は露骨な程に開きます。
ただ、義忠は沈着冷静、時勢が見える人物で伊勢平氏に対抗せずに、逆に娘婿である事を利用して協調し争わないように対応します。その甲斐もあり、義忠は舅である正盛の子、平忠盛の烏帽子親となります。
この忠盛は平清盛の父であり、また白河院、鳥羽院の近臣として寵愛を受け正四位上という公卿寸前の地位まで登った人物です。同時に義忠は父には劣るものの、僧兵の強訴を阻止するなど武勇でも活躍、摂関家のみならず院政にも参画し「天下栄名」と称えられるようになりました。
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新羅三郎義光、義忠に殺意を抱く
しかし、一族同士で殺し合いを繰り返している喧嘩上等な河内源氏は義忠の活躍を目を細めて喜んだりはしませんでした。
武勇では父より劣り、格下の伊勢平氏と仲良くしている義忠を、名門河内源氏の看板に泥を塗るコウモリ野郎と蔑む身内も多かったのです。その1人が義家の兄弟である義光です。
義光は新羅三郎と言い、後三年の役では苦戦する兄義家を救う為に援軍に向かう事を朝廷に願い出ますが、朝廷が許しを出さないと知るや、平然と官位を投げだして一武士として奥州で参戦し義家を救うなど男気のある人物でした。
ところが、義家死後、義家の子供たちはパッとせず、家督を継いだ義忠は武門の家のプライドを捨てて新興の伊勢平氏などに媚び諂っています。義光は「河内源氏は、このままではダメになる」と義忠殺害を決意したのです。
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源義忠殺人事件
天仁2年(1109年)義忠は何者かに斬りつけられ2日後に死亡しました。当初、検非違使の調査により美濃源氏の源重実が容疑者として逮捕されますが、証拠がなく釈放されます。その後、殺人現場に残された太刀が義家の弟である源義綱の三男、源義明のものである事が判明します。
それにより、義忠殺害の真犯人が義綱と義明ではないかとされ、捜査の結果、義明の乳母夫であり滝口武者の藤原季方が義忠殺害の犯人であると断定されます。
義綱と嫡男義弘等5人の息子達は身内の人間に嫌疑がかけられた事に憤慨し、義綱の弟、源義光の所領、近江国甲賀郡甲賀山に立て籠もり、義明は病気を理由に行動を共にせず藤原季方の館に籠ります。
甲賀山に籠った義綱に対し、白河法皇は義忠の子で家督を継いだばかりの子、源為義に追討を命じました。この時、義光も為義を支持したので義綱一党は窮地に追い込まれます。為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると、義綱方は各地で敗退し義綱は降伏しようと言い出しました。
しかし、「無実の罪で降伏する事は出来ない」と息子達は反発、特に義綱の子の義弘は切腹して、自分達の無実を白河法皇に訴えようと義綱にも切腹を促しました。そして義綱の息子達は投身自殺や焼身自殺、切腹など次々と死んでいき、取り残された義綱は出家して為義に降伏、佐渡に流罪となります。
一方で藤原季方邸に籠る義明と季方は、白河法皇の命令を受けた検非違使、源重時の攻撃を受けます。2人は奮戦し重時方に二百名の死傷者を出すほど奮戦した後に自害して果てました。
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真犯人は義光だった
こうして事件は源義綱、義明、藤原季方等、源氏の主だった人々を殺害して終結しますが真相は違いました。本当の真犯人は義光であり、彼は義忠を殺害するために郎党の鹿島三郎こと平成幹を義忠の郎党に潜り込ませます。
そして、同じく自分の郎党の藤原季方に命じて、婿である源義明の太刀を持ってこさせ平成幹に与え、暗がりで義忠を襲わせたのです。こうして、成幹はこれみよがしに義明の太刀を現場に残し罪を義明になすりつけたのでした。
事件後、成幹は義光の指示に従い、義光の弟の園城寺僧、快誉を頼るように命じ書状を託しますが実際には書状には成幹を殺すように記されており快誉は成幹を殺して地中に埋め、真相は闇の中になったのです。
しかし、義光の狙い通りにはいかず、平成幹は園城寺を頼る前に、他人に殺人事件の真相を話していました。やがて噂は広まり、京都に居られなくなった義光は自身の勢力基盤である常陸国に逃亡します。
義光は大治2年(1127年)園城寺で死去したとする説が有力ですが、一方で暗殺した義忠の遺児である河内経国によって討たれた説もあります。
これが義光による義忠暗殺事件のあらましですが、義光が河内源氏の家督を狙ったにしては、彼には得るものがないので、実際の黒幕は河内源氏に打撃を与え、さらに河内源氏の後ろ盾である藤原摂関家を攻撃しようとした白河法皇の陰謀であり、義光はそれに上手く利用されたとする説もあります。
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源義光の孫が武田信義
源義光は常陸国の平清幹の娘を嫡男義業の正室とし、義業の子孫は常陸佐竹氏として土着します。義光はついで清幹から常陸国那珂郡武田郷を譲り受けると三男の義清に与え、義清は武田冠者を名乗ります。
この義清は祖父、源頼義の弟である頼清の三男、源兼宗の娘を正室として天永元年(1110年)には嫡男の清光が誕生しました。
この清光は大治5年(1130年)に武田郷と隣郷の境界を巡り平清幹の嫡男である常陸の在庁官人大掾盛幹と敵対しますが紛争に敗れ天承元年(1131年)に勅勘を受けて甲斐国の市河荘へ流罪となります。
ここで戦国時代まで500年近く連綿と続く甲斐武田氏が誕生したのです。
清光の子が現在、大河ドラマで源頼朝と張り合っている甲斐源氏の武田信義なので、頼朝にとって信義は私利私欲の為に先祖を殺し河内源氏の衰亡を招いた逆賊の孫であり、河内源氏の棟梁にする事もその配下になる事も考えられない相手でした。
ちなみに頼朝は、暗殺された義忠から見て曾孫に当たります。
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日本史ライターkawausoの独り言
大河ドラマではライバル関係が描かれる頼朝と信義ですが、その背景には70年前の殺人事件が横たわっていたのです。
その後の武田信義は頼朝の分断工作で身内の離反が相次ぎ、さらに息子の一条忠頼を頼朝に殺されるなど勢力を縮小していき、頼朝配下の御家人として生きていく事を余儀なくされる事になります。結果としては曾祖父の無念を頼朝が晴らした形になりました。
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