NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、頼朝が急死し二代将軍になった頼家ですが、比企一族を外戚とし、梶原景時のようなお気に入りの側近のみを重用する政治姿勢に北条時政を筆頭とする御家人が反発し、13人の合議制が形成されました。
しかし、この中で主人公の義時は、北条ではなく江間義時を名乗っています。どうして小四郎は北条ではなく江間を名乗るようになったのでしょうか?
この記事の目次
最初は北条小四郎だった
鎌倉幕府の歴史書、吾妻鏡では、治承4年(1180年)初登場した時の小四郎は北条を名乗っています。その頃は、頼朝が石橋山に向かう途中の事で小四郎は兄宗時や父、時政と一緒でした。
ところが翌年4月、義時が頼朝の寝所を警備する11名に選ばれた時には「江間四郎」となり、吾妻鏡でも「江間」「江間小四郎」「江間四郎」「江間殿」「北条小四郎殿」と、北条と江間が入り混じるようになりました。
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どうして義時の苗字が変わったのか?
では、最初、北条小四郎だった義時の苗字がどうして江間に変化したのでしょうか?元々、伊豆には江間という領地があり、伊東祐親の被官(家来)江間小次郎、あるいは江間小四郎という豪族が所有していました。
被官である江間氏は主人である伊東祐親に味方して頼朝に叛いたので討伐され領地は没収、江間の土地は義時に与えられ、以後、北条小四郎は江間小四郎と名乗ったと考えられます。
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当時は苗字が誕生する前の過渡期
現代の感覚では、住所が変わっても苗字が変わるという事はありません。それは苗字があくまで血縁に基づいているからです。しかし、鎌倉時代初期はそうではなく、分家して住む土地が変わると苗字も変化しました。
例えば、和田義盛の父は杉本義宗であり、義盛の三男は、朝比奈義秀です。どうして、3代で苗字が違うのかというと、住んでいた領地が違うからです。
もっとややこしい事を言うと、杉本義宗の父は三浦義明で三浦義澄は実の兄弟、三浦義村は甥っ子にあたります。このように和田氏は元々三浦氏なのです。
当時は、領地が変わると苗字が変わるのが普通だったのです。南北朝期に入ると、姓に替わって苗字が定着していき、領地が変わっても苗字が変わる事がなくなりますが、鎌倉初期はその過渡期でした。
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北条義時が江間小四郎であり続けた理由
北条義時が江間小四郎を名乗り続けたのには、もうひとつ理由があります。
兄の北条宗時が死んで以後、北条時政の後継者と考えられてきた義時ですが、北条家の家督を相続せず北条家の分家に甘んじていたからです。
その証拠として、北条時政が牧の方との間に生まれた北条政範を後継者として北条家の家督を継がせようと考えていた節があります。
時政は先妻との子である義時ではなく、現在の正室である牧の方との子である政範を大事にし、家督も政範に継がせるつもりだったというのです。しかし、政範は15歳の若さで疫病で急死。その後、牧氏の乱で義時との権力闘争に敗れた時政は失脚、伊豆に押し込められてしまいました。
江間については、義時の子、泰時も正治2年(1200年)2月に江間泰時と名乗っている時期があるので、北条時政が失脚して以後、江間の苗字を名乗らなくなり北条で一本化していくと考える事が出来そうです。
本家の時政が失脚した結果、庶流の義時が宗家となり、泰時、経時、時頼と義時の系統が執権の地位を世襲していく事になります。
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北条義時の呼び方は?
北条義時は、ドラマではほとんど小四郎と呼ばれ義時と呼ばれる事はあまりありません。これはどうしてなのでしょうか?
鎌倉時代の人々には、仮名と諱という2つの名前がありました。小四郎というのは仮名で義時は諱です。
しかし諱は、忌み名とも書き父母のような親しい人以外は呼んではならないとされていました。当時は言霊信仰があり、諱を呼ばれると人生を操られると本気で恐れていたのです。そのため、相手に対して恨みを持っていたり嫌っている人は仮名ではなく、敢えて諱で呼んでいました。
大河ドラマでも源頼朝と武田信義は険悪な関係だったので、お互いに相手がいない所で頼朝、信義と諱で呼び捨てていましたよね?ただ、名前を呼んではならないでは日常生活で不便極まりないので、他人が気軽に読んでもいい仮の名として仮名が発達したのです。
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北条義時を小四郎と呼ぶのはなぜ?
北条義時は、通称小四郎です。では、どうして小四郎なのでしょうか?
普通に考えると、北条時政の四男だから四郎で小四郎と考えてしまいますが、実際には義時は次男で四男ではありません。小四郎という名前は父の時政に関係があります。
北条時政は四男で北条四郎と呼ばれていましたが、義時が誕生した時に、自分の仮名の四郎を与え、区別する為にジュニアの意味がある小をつけて小四郎としたのです。
英語圏では、ロバート・ダウニーjrのように父と同じ名前でjrをつけて区別する事がありますが、小四郎も同じで北条四郎jrという意味なのです。
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北条時政はなぜ四郎と呼ばれるの?
北条義時の父である時政はどうして四郎なのでしょうか?
これは時政が北条家の四男である事を意味しているのかも知れません。ただ、家によっては家督を継ぐ人間の通称を四郎と定めている場合もあり、時政が確実に北条家の四男かどうかは分かりません。
時政の家系は桓武平氏と言われていますが、系図はすべてバラバラで一致するものが少なく祖父が北条時家、父が時方、あるいは時兼という以外、よく分からないそうです。これは北条家が時政以前は、大した事がない小豪族だった事を意味しています。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は北条義時が、どうして江間義時を名乗っていたのかについて解説しました。鎌倉時代は、まだ苗字が固定しておらず、住んだ土地の名前を苗字の代わりに名乗っていたので、小四郎も与えられた江間の領地から江間義時と名乗りました。
しかし、本家の北条を相続していた父の時政との権力闘争に勝利した結果、庶流の江間義時が北条宗家を代表するようになり、次第に江間ではなく北条を名乗るようになったと考えられます。
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