2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公である徳川家康。彼の74年の波乱の生涯には、何度もどうする?という難しい決断が横たわっていましたが、その中でもかなり危なく長期に及んだのが国内勢力の離反、三州錯乱でした。
それまで家康を支えてきた家臣団が次々に寝返った三州錯乱とはどんな事件でしょうか?
この記事の目次
桶狭間後もしばらく今川氏に属した家康
永禄3年桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られます。しかし、だからと言って当時松平元康を名乗っていた家康がいきなり今川家を裏切って織田についたわけではありませんでした。
元康は今川家の部将ではなく、今川家の一門である関口氏の姫である築山殿を妻にして一門衆に準じた扱いであり、義元亡き後も今川家を共同運営していく責務があったのです。
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今川氏真を見限り織田と和睦
しかし、一門衆として織田家と戦いを繰り返す家康に対して、当主の今川氏真は十分な救援ができませんでした。その頃氏真は関東に侵攻してきた長尾景虎に対応している最中で、元康の救援まで手が回らなかったのです。
この事態を受けて元康は、より領地に近い織田家と結ぶ方が三河を守れると考えるようになり、桶狭間の戦いの翌年、叔父水野信元の仲介を受けて織田家と和睦しました。
以後、元康は今川から離れて自立を模索します。戦略面では今川方の国衆、牧野成定が守る西尾城を攻略し、家康と敵対する東条吉良氏の攻略も開始。さらに今川家の東三河支配の拠点である牛久保城を攻撃しました。
また、将軍足利義輝に接近して官位を得ようとするなど外交面でも独自路線を取り始めます。
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内戦が長引き重税に家臣の不満が爆発
元康が今川家に反旗を翻した事で三河国は今川勢力と松平の勢力に分裂して抗争しました。ところが元康には大きな戦力がなく、戦線はすぐに膠着して泥仕合となります。だらだらと長引く戦いに、元康の家臣や地域の人々の負担も重くなりました。
それでも元康は戦争を止めようとはしません。その決意として元康は今川義元から受けた元の字を捨て家康と改名し、松平家康と名乗ります。
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本願寺勢力を怒らせ一向一揆勃発
しかし、家康の決意とは無関係に支配下からは続々と離反者が出てきます。具体的には桜井や大草のような松平一族や家康の家臣の酒井忠尚などが家康に反旗を翻しました。家康は今川氏ばかりか反対勢力と戦う事になり軍資金が欠乏。ついに西三河国内で不入の権を得ている本願寺から軍資金を取り立てる暴挙に出ました。
これに対し、三河の本願寺勢力は怒り狂い門徒に呼び掛け一向一揆を起こします。この時、家康の家臣で熱心な門徒であった本多正信が出奔し一向一揆に加担したのは有名な話です。一向一揆は、一度は家康と和睦した東条吉良義昭を唆して再度離反させるなど、家康を苦しめますが、永禄7年2月になると水野信元が仲介に入り、一向一揆と家康は和睦しました。
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和睦後に西三河の本願寺勢力を撲滅
しかし、流石タヌキオヤジ家康、そのまま矛を収める気はなく水面下では東条吉良氏を没落させて一向一揆の勢いを削ぐと、西三河本願寺に対して宗旨替えを要求。これを拒否されると寺院を力づくで破壊し領内から追い出します。
この時家康は、自分に叛いた家臣もことごとく領内から追放しました。さらに家康は東三河の今川勢力の拠点である吉田城と田原城の攻略に成功。織田家に奪われていた加茂郡西部の高橋郡城と碧海郡西部を除き三河国の平定を成し遂げました。
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松平から徳川へ改名し戦国大名へ
三河統一が完了すると家康は領内の松平勢力の上に立つ存在として松平から徳川へと改名。さらに近衛前久に働きかけ従五位下三河守の官途を得ました。こうして家康は永禄9年頃までには三河国を支配する戦国大名へと成長したのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
家康は最初から今川家からの自立を考えていたわけではなく、一門衆として今川家の政治に参加しながら三河を織田家の攻撃から守ってもらいたいと考えていました。
しかし、義元の後を継いだ氏真にその器量はなく織田家の脅威にさらされた家康は、今川に見切りをつけ織田家と和睦。その訣別の決意表明として元康の名前を捨てたのです。ところが家康の想像よりも今川家の勢力は強く、戦争は泥沼化、松平氏や家臣の離反を招いてしまいました。
ただ三州錯乱を平定する事で家康は国内の潜在敵を一掃でき、本願寺勢力を駆逐する事にも成功。三河で独裁的な権力を確立し戦国大名への自立が可能になったので、この騒乱は家康にとって回避できない事だったのかも知れません。
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