榊原康政は徳川四天王の1人で、早くから徳川家康に仕えた武将です。本多忠勝とは同級生ですが、忠勝と違い文武両道で書に巧み、羽柴秀吉を批判する書状を書いて秀吉を激怒させ賞金首にされたという逸話もあります。今回はそんな榊原康政を出来るだけ多角的に解説しましょう。
この記事の目次
榊原氏の家系は?
榊原康政の先祖は自称三河仁木氏で一部が伊勢国一志郡榊原に移動して榊原を名乗ります。永正15年(1518年)頃、松平家の奉行人の1人にすでに榊原主計忠直が存在していたようで、松平の家臣としては古株ですが、康政の系統は松平氏に仕えたのではなく、その家来の酒井氏に仕える陪臣であまり有力な存在ではありませんでした。
榊原康政の初陣
榊原康政の初陣は1563年の三河一向一揆の鎮圧で15歳です。その詳細な戦いぶりは分かりませんが、家康から康の字をもらって諱を康政としたそうなのでかなり活躍したのでしょう。
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榊原康政と徳川家康の関係
榊原康政は、1548年に榊原長政の次男として現在の愛知県豊田市上郷町に誕生します。幼い頃から勉強が好きで、書を読んで字も達筆だったそうです。康政が13歳の時、松平元康(家康)が康政を見出して、最初は小姓として仕えました。
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榊原康政の兄は誰?
榊原康政は次男であり、兄に榊原清政がいました。しかし清政は病弱であり、武将の勤めを果たせないので家康の命令で康政が榊原の家督を継ぎます。清政は1800石を与えられ幕府の旗本となり、家康の居城駿府城の後詰の久能山城を守り、子孫は旗本として代々駿府久能山東照宮の責任者となりました。
榊原康政の性格は秀吉も怒らす辛口男
榊原康政は若い頃は血気盛んでしかも、文才があったそうです。小牧長久手の戦いの時、康政は羽柴秀吉についた大名を動揺させようとして、「秀吉は信長公の恩義を忘れて息子の信雄に敵対する義を知らぬ男だ!」と秀吉を罵倒する書状を送りつけました。痛い所を疲れた秀吉は激怒し「康政の首を獲った者には十万石を与える」と宣言。康政は賞金首になりますが、戦いは痛み分けで終わり康政の首は繋がりました。
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榊原康政の家紋は?
榊原康政の家紋は貴族の牛車の車輪部をデザインした榊原源氏車と言います。この源氏車は平安時代の貴族、藤原秀郷の子孫である佐藤氏が主に使用した家紋で佐藤や榊原の苗字を持つ人が使う事が多いのですが、榊原氏の場合、特に榊原源氏車と呼ばれる事が多いようです。
榊原康政の妻は?
榊原康政の妻は、康政が編入された大須賀康高の娘です。大須賀康高は元々は康政と同様、松平氏の家臣筋である酒井忠尚に仕えていましたが、忠尚が家康に反旗を翻したので見限り、康政と共に家康の直臣に鞍替えしました。
榊原康政にあだ名はあるの?
榊原康政には、あだ名は伝わっていませんが、通称が小平太なので小平太と呼ばれていたと考えられます。
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榊原康政は赤備え?
榊原康政には鎧兜が伝わっていますが赤くありません。赤備えは康政と仲が良かった井伊直政がつけていたものです。
榊原康政、姉川の戦い活躍
榊原康政は1570年の姉川の戦いに参加しました。この時、姉川を前に浅井・朝倉が軍勢を二手に分け浅井軍は野村、朝倉軍は三田村に布陣します。この時、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へ突撃しました。戦いは激戦になり膠着しますが、家康は浅井、朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見て、榊原康政に命じて側面を攻めさせます。康政の攻めは苛烈で最初に朝倉軍が敗走、さらに浅井軍が敗走しました。
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榊原康政の愛刀は何?
榊原康政の愛刀は名物式部正宗です。この刀は元々駿河国の府中城主、中村式部大輔一氏が所持していましたが、一氏が関ケ原の戦いで発病して死亡したので榊原康政に与えられました。しかし、その頃には榊原康政も老齢になっているので、式部正宗を康政が戦場で使用した事はなさそうです。
榊原康政の甲冑は?
榊原康政愛用の甲冑には「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などがあります。紺糸威南蛮胴具足は胴を分厚い一枚鉄板で覆い、防御力が高そうな鎧で、黒糸威二枚胴具足は鎧を黒一色で塗っています。
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榊原康政の兜は?
榊原康政の兜は三鈷剣付阿古陀形六十二間筋兜という長い名前です。兜の前立の三鈷剣は倶利伽羅剣とも呼ばれ不動明王が右手に持ち、人間の3つの煩悩、貪欲、無知、無分別な怒りを打ち破るとされています。
榊原康政の傷は?
榊原康政は勇猛果敢な性格でしたが、傷についての記述は見つかりませんでした。ただ、康政と仲が良かった本多忠勝は生涯に五十回以上も戦いながらかすり傷ひとつも負わず、逆にもう1人の親友の井伊直政は重武装だったのに、毎回生傷が絶えなかったそうです。
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榊原康政の面白いエピソード
榊原康政のエピソードには、関ケ原の合戦に遅れてきて家康の逆鱗に触れた徳川秀忠を庇った話があります。家康は真田昌幸に足止めされて関ケ原の戦いに間に合わなかった秀忠に激怒し、秀忠の謝罪も受け入れようとしませんでした。
康政は家康に対して「上様が苦労して戦をしてきたのは子孫の為に平和な世の中を造りたいからでございましょう?それなのに我が子が謝りたいというのを無視してなんとする?家が滅びますぞ」と激しく諫言します。家康は康政の諫言を聴いて考え直し、秀忠と面会しこれを許しました。
榊原康政の生涯
榊原康政の生涯で一番の功績として、小牧・長久手の戦いでの活躍があります。康政はこの戦いで秀吉の甥、羽柴秀次の軍勢をほぼ壊滅させた上に、森長可と池田恒興を討ち死にさせる大手柄を挙げました。また康政は文武両道に秀でていて、秀吉を挑発する書状を秀吉方の大名にバラまいて秀吉を激怒させ、10万石の賞金を懸けられたと言われています。
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榊原康政と本多忠勝の関係
榊原康政と本多忠勝は年齢が同じという事もあり、とても仲が良かったようです。「武備神木抄」によると武勇では本多忠勝が勝るが、兵の指揮では榊原康政が勝るとされています。
榊原康政の旗印は?
榊原康政の旗印は、白地に「無」の一文字でした。この無は無欲無心で戦うという意味であるとも、常に無名の一兵卒の気持ちで戦うという意味であったとも伝わります。
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榊原康政の最期はどんな?
榊原康政は関ヶ原の戦いの後に老中に任命されますが所領の加増はありませんでした。一説では、この頃家康は武断政治から文治政治への転換を考え、古参の武将に冷たくなっていたとも言われ、榊原康政や本多忠勝は家康の冷淡さに憤慨していたとも伝わります。一方で、本多正信・大久保忠隣が康政よりも先に老中になっていたので「老臣権を争うは亡国の兆しなり」として、康政自ら家康から離れていった説もあります。康政は上野国館林10万石の城主として1606年、59歳で死去しました。
榊原康政の死因はなに?
榊原康政の死因は毛嚢炎が悪化した事による病死です。毛嚢炎とは毛穴の奥の毛根を含んでいる部分におこる炎症で、毛包部に出来た小さな傷から細菌感染する事で起きます。
毛嚢炎は「おでき」とも言われますが、おでき程度と侮るのは危険で、悪化すると炎症が広範囲に広がり強い痛みや発熱、体調不良を起こし免疫力が低下している高齢者は命を落とす事もあります。現在では抗生物質で治癒しますが戦国時代には自己免疫しか頼れないので、59歳になっていた康政は自力では治せなかったのでしょう。
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榊原康政の死後は?
榊原康政の長男は外戚の大須賀氏の養子となっていたので、康政の死後は三男の康勝が継ぎます。しかし、康勝は大坂夏の陣の後に26歳で跡継ぎなく死去、家康は榊原の家が絶える事を惜しんで大須賀忠政の長男で康政の孫にあたる大須賀忠次に家督を継がせました。
ところが、そこで意外な事実が発覚します。実は康勝には庶子の平十郎がいたのですが幼すぎた上に病弱でいつ死ぬか分からないので幕府への報告が遅れていたのです。結局、康勝は榊原本家を継ぐ事はありませんでしたが、息子の代からは旗本として存続し江戸中期に榊原本家で跡継ぎが絶えると康勝の家系から榊原政岑が迎えられています。
榊原康政の子孫
旗本の榊原家はその後も養子を入れる等して存続し、江戸後期には鼠小僧次郎吉を捕らえた事で有名な江戸町奉行榊原忠之を輩出します。榊原康政の子孫は江戸時代を生き抜いて廃藩置県を迎え、現在の康政の子孫は17代目で会社社長をしている榊原政信さんです。
榊原康政の歴史的影響は?
榊原康政は石田三成が徳川家康を伏見で襲撃しようとしているという情報を掴み、家康の近くに飛んで行って守ると同時に、伏見館の周辺に関所を築いて人間の往来を制限し味方を多く見せ、同時に淀や伏見に兵士を送り「近く戦が始まるので赤飯や饅頭、餅、酒を残さず買い上げる」と触れ回ったと言われています。この動きを見た三成は襲撃を取りやめたそうです。もし康政の機転が無ければ家康は伏見で討たれて、後の徳川幕府は無かったかも知れません。
榊原康政役は?
NHK大河ドラマで榊原康政を演じるのは、ファッションモデル、歌手、俳優の杉野遥亮さんです。今年28歳の杉野さんはNHK大河ドラマ初出演です。
日本史ライターkawausoの独り言
榊原康政は徳川四天王の1人であり、家康にも初期から仕えているので、エピソードも多く、今回網羅できていない逸話も多くあります。武勇では本多忠勝、派手さでは井伊直政に負けていてセンターが取れない康政ですが文武両道の名将であり、秀吉にも喧嘩を売る度胸の持ち主で様々な場面で家康を助けました。
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