鳥居元忠は岡崎城譜代の鳥居忠吉の三男として誕生します。先祖代々松平に仕えた鳥居元忠は家康に信頼され、常に旗本として家康の身辺を警護したので派手な手柄では徳川四天王には劣りますが、その最後で壮烈な討死を遂げて歴史に名を刻むのです。
この記事の目次
鳥居忠吉の死因と元忠の家督相続
鳥居元忠は天文8年(1539年)松平氏の譜代である鳥居忠吉の三男として愛知県の岡崎市渡町に生まれます。父の忠吉は岡崎奉行などを務めた、松平譜代で家康が竹千代と名乗って今川義元の人質だった頃から仕えていました。
家康が桶狭間の戦の後、今川氏から独立し三河を統一すると、元忠は旗本先手役となり旗本として家康を守り戦います。元忠には忠宗という兄がいましたが、天文16年(1547年)に討ち死にし次男は出家していたので元亀3年(1572年)に父、忠吉が病死すると家督を相続しました。
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鳥居元忠の逸話
鳥居元忠の逸話は壮烈なものです。慶長5年(1600年)徳川家康が上杉景勝の征伐に向かうと鳥居元忠は留守を命じられ伏見城を預けられました。家康は出陣の前に伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし、兵力が必要なので伏見城には3000人しか残せない事を詫びます。
しかし元忠は「もし大坂方が攻めてきたら伏見城では防戦できず、城に火を放って討ち死にするしかないので兵は無用です。私と松平近正の2人で十分なので1人でも多く家臣を連れて行ってください」と答えています。家康は勇敢な元忠の言葉を喜び、深夜まで酒を酌み交わしたそうです。
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鳥居元忠の妻は馬場信房の娘
鳥居元忠の正室は形原松平氏の松平家広の娘です。松平家広は三河国形原城主ですが、桶狭間前後で家康についたり今川氏真についたり複雑な動きをしていました。元忠にはもうひとり、馬場信房の娘が側室として入っています。経緯は不明ですが、天正10年(1582年)の天正壬午の乱後に元忠は家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ谷村城主になっているので土地の人心を得る目的かも知れません。
伝承によると家康は甲斐を統治するのに有利になるとして元忠に馬場信房の娘を探し出して側室にするように命じました。しかし元忠は内心イラッとして(余計なお世話だ。側室くらいは自分で決めるわい)と、探したふりをして家康に「娘は見つかりませんでした」と報告しました。
ところが、その後、ひょんな事から馬場信房の娘が発見され会ってみると、これが父の名に愧じない女丈夫で元忠は一目で気に入り妻に迎えます。しかし今さら家康に報告するのも気まずいので沈黙していると、家康が真実を聞きつけて大笑いし、改めて信房の娘を側室にせよと命じたそうです。馬場信房の娘は、伏見城の図面を見て即座に弱点を見抜き、元忠は「さすが名将馬場美濃守の娘よ」と感心したとも言われています。
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鳥居元忠の最期
家康が上杉討伐に向かうと五奉行、石田三成等が挙兵、伏見城は前哨戦の舞台となります。鳥居元忠は松平家忠や近正、内藤家長らと矢作等から徴発した1800人の兵力で伏見城に籠城。元忠は最初から死を覚悟し三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺。
13日間も戦い続けた末、大坂方の鈴木重朝と一騎討ちの末に討ち死にしたと伝わります。元忠の首は謀反人として京橋口にさらされますが、親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が長源院に葬ったそうです。
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京都の養源院「血天井」は なぜ?
鳥居元忠が討ち死にした伏見城に残された血染めの畳は、家康が江戸城の伏見櫓の階上において、登城した大名たちが必ずこれを見るように細工されました。明治維新後、血染めの畳は新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され畳塚として埋葬されました。また、同じく伏見城の血染めの床板は「血天井」として京都市の養源院や宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に伝えられて、寺の名物となっています。
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鳥居家のルーツは?
鳥居家は大名になった江戸時代に先祖を左大臣藤原師尹の孫で中古三十六歌仙の藤原実方の長男藤原朝元と称しています。その後、鳥居氏は紀伊国熊野に出て鳥居忠氏という人物が承久年間に三河国矢作庄の渡理に移住して渡理伝内と称したとされますが証拠はありません。
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鳥居元忠の晩年
鳥居元忠は晩年、家康が関東に移封されると下総国矢作城4万石を与えられ大名になります。これは常陸の佐竹氏や東北地方の諸大名の南下に睨みを効かせる目的であり、元忠が老いても家康に頼りにされていた様子が分かります。慶長4年(1599年)、元忠は矢作領84か村にわたる検地をおこない4万石となりますが、従来よりも2倍半の増盛がなされた苛酷な検地だったようです。
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鳥居元忠の名言は?
鳥居元忠は徳川四天王ではありませんが、忠義一徹の名将で常に家康の傍らで旗本を務めたので、豊臣秀吉は元忠を引き抜こうと考え、元忠の息子、忠政を豊臣家の直臣にしようと誘いを掛けますが、元忠は「我が家は先祖代々、徳川に仕える事が家訓ですので」とキッパリと断ったそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は鳥居元忠について解説しました。徳川四天王に比較すると戦場での働きは一ランク落ちる元忠ですが、統治が難しい甲斐国の経営を任されるなど、晩年まで家康に信じられていた事が分かります。そして元忠の最期も三河武士らしく、忠義一徹を貫いたものでした。
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